まだ24歳の若い皇后の急逝に貴公子たちは動揺
皇后定子の突然の崩御は平安貴族社会にどのような影響を与えたのでしょうか。注目すべきは、定子崩御の後に若い貴公子たちが次々と出家していることです。まず、3日後の19日に行成の従弟にあたる藤原成房(19歳)が出家の意思を示して比叡山の寺に入り、父入道(かつての権中納言義懐)に諌められています。彼はいったん思いとどまりますが、後に出家しました。さらに翌長保3年2月4日、道長の猶子(養子)になっていた源成信(23歳)と右大臣顕光の息子藤原重家(25歳)が三井寺に向かい、一緒に出家しています。将来有望な若君達の突然の出家は世間の人々をおおいに驚かせました。
『権記』の記事によれば、成信は前年に道長が病になった折に人心の変化を感じて出家を考え始め、重家は出家の意思を長年抱いていて、2人で出家することを年末には約束していたということです。しかし、2人が12月末に出家を決断したことや、出家した日が定子の四十九日の頃であることは偶然なのでしょうか。成信は『枕草子』にも登場して定子後宮に出入りしていた人物でもありました。厭世的な思いを抱く若者たちを出家に駆り立てたのは、直接的には定子の崩御だったのではないでしょうか。
道長のサクセスストーリー『栄花物語』ではどう描かれたか
次に平安後期の歴史物語から、『栄花物語』を見てみましょう。この作品は藤原道長の栄華を描くことを主題にしていますが、「浦々の別」の巻に長徳の変で左遷される伊周と隆家を、「とりべ野」の巻前半には定子の崩御と葬送の記事を大きく取り上げています。
『栄花物語』作者は、道長が中関白家(道隆の家族)に対して行った政治的措置には触れず、没落していく一族の悲哀をひたすら書き綴ります。中関白家の人々を同情すべき対象として扱うことで、彼らを道長の器量に及ばなかった政治的敗者として位置づけているのです。そして、その中心にいた后の悲壮な死は、最も物語的要素を備えていたということなのでしょう。