天皇の妻となって11年、3人の子を残して崩御した定子
皇后定子が崩御したのは、長保2年(1000)12月16日早朝のことでした。一条天皇が11歳で元服するとすぐに入内して11年、その6年目に父関白道隆が亡くなった後は、栄華からの没落という怒濤の運命に翻弄された人生でした。兄弟の伊周・隆家が左遷された事件(長徳の変)をはじめ定子の周辺で起きた不幸な出来事について、『枕草子』はほとんど語りません。いつのことかが分かる最後の章段は、長保2年5月、定子最期の滞在場所となった三条宮で、幼い皇子・皇女と一緒に迎える端午の節句の時のものです。定子と子どもたちのその後についても『枕草子』は口を閉ざしているのです。
史実によれば、長保2年8月に定子は今内裏(前年に内裏の建物が焼失したため、仮に内裏とした一条邸)に参入し、20日程で退出しています。その4カ月後に定子は3人目の御子を出産し、わずか24歳で命を落とすことになります。彼女の死について書いてある資料を見てみましょう。歴史資料として、藤原道長の『御堂関白記』と藤原実資の『小右記』には定子崩御当日の記事はなく、『権記』に詳しく書いてあります。
三度目の出産後に体力が尽きてあっけなく亡くなった
『権記』は、定子が崩御した時に蔵人頭として一条天皇の側近を務めていた藤原行成の日記です。まず、前日の12月15日、東西の山にわたって二筋の白雲が月を挟むという天象が現れ、それは不祥雲とも言われていて、月は后の象徴であると記されています。そして翌16日の朝、不吉な予兆が現実となり、定子崩御の一報が入りました。驚いて確認したところ、定子は寅刻の終わりごろ(午前5時頃)には崩御していたというのです。当時は出産で母子共に命を落とすことも多い時代でしたが、定子は皇女を無事に出産した後、体力が尽きて亡くなったのでした。その知らせを受けた一条天皇は甚だ悲しんだとも記されています。
また同じころ、女院詮子が危篤状態に陥り加持祈祷を行ったところ、邪霊が付いて狂乱した女官が道長に襲いかかり、道隆か道兼の霊が現れたという記事も記されています。大河ドラマでも度々描かれているように、政権争いに勝った者は、負けて恨みを残した者たちの怨念を恐れました。定子崩御に対する道長側の人々の受け止め方は複雑だったようです。
まだ24歳の若い皇后の急逝に貴公子たちは動揺
皇后定子の突然の崩御は平安貴族社会にどのような影響を与えたのでしょうか。注目すべきは、定子崩御の後に若い貴公子たちが次々と出家していることです。まず、3日後の19日に行成の従弟にあたる藤原成房(19歳)が出家の意思を示して比叡山の寺に入り、父入道(かつての権中納言義懐)に諌められています。彼はいったん思いとどまりますが、後に出家しました。さらに翌長保3年2月4日、道長の猶子(養子)になっていた源成信(23歳)と右大臣顕光の息子藤原重家(25歳)が三井寺に向かい、一緒に出家しています。将来有望な若君達の突然の出家は世間の人々をおおいに驚かせました。
『権記』の記事によれば、成信は前年に道長が病になった折に人心の変化を感じて出家を考え始め、重家は出家の意思を長年抱いていて、2人で出家することを年末には約束していたということです。しかし、2人が12月末に出家を決断したことや、出家した日が定子の四十九日の頃であることは偶然なのでしょうか。成信は『枕草子』にも登場して定子後宮に出入りしていた人物でもありました。厭世的な思いを抱く若者たちを出家に駆り立てたのは、直接的には定子の崩御だったのではないでしょうか。
道長のサクセスストーリー『栄花物語』ではどう描かれたか
次に平安後期の歴史物語から、『栄花物語』を見てみましょう。この作品は藤原道長の栄華を描くことを主題にしていますが、「浦々の別」の巻に長徳の変で左遷される伊周と隆家を、「とりべ野」の巻前半には定子の崩御と葬送の記事を大きく取り上げています。
『栄花物語』作者は、道長が中関白家(道隆の家族)に対して行った政治的措置には触れず、没落していく一族の悲哀をひたすら書き綴ります。中関白家の人々を同情すべき対象として扱うことで、彼らを道長の器量に及ばなかった政治的敗者として位置づけているのです。そして、その中心にいた后の悲壮な死は、最も物語的要素を備えていたということなのでしょう。
「兄の伊周は冷たくなった定子の体を抱き上げて号泣した」
かなりの脚色もあることを前提に、定子崩御直後の記事を紹介しましょう。
(現代語訳)「明かりを近くに持って来い」と命じて、帥殿(伊周)が定子の御顔を拝見されると、まったく息のないご様子である。これは大変だと驚いて、お身体を手で探り申されると、たちまち冷たくなってしまわれた。ああ、とんでもない事になったと動揺している間、僧たちはうろうろ歩き回りながら誦経の声を絶やさず、部屋の中でも外でも何度も額を床につけて大声で祈るが、何の甲斐もなくそのまま亡くなってしまわれたので、伊周は定子をお抱き申し上げ、声も惜しまずお泣きになる。
最愛の妻を亡くした一条天皇は対面できず悲嘆にくれる
ここには定子の兄の伊周が、妹の死に直面して惑乱し号泣する姿が詳細に記されています。次は、最愛の妻を亡くしてもその葬儀に立ち会うことさえ許されない一条天皇の悲しみを記した場面です。
(現代語訳)天皇も定子の訃報をお聞きになって、ああ、どんなに辛い気持ちでいらしたか、本当にもう生きていられないように思い沈んだご様子だったのに、といたわしく悲しくお思いになる。宮たちはとても幼くて、どうしているかと、限りなく心配しお嘆きになる。
天皇という立場上、定子への愛を貫き通せなかっただけに、悔やみきれない思いが残っていたことでしょう。幼い皇子たちへの父親としての思いも切実に感じられます。
定子は夫や子どもへの思いを辞世の歌3首に遺していた
一方、定子の方も夫への思い、我が子への思いを遺して旅立って逝ったのでした。『後拾遺和歌集』の哀傷巻は、定子の歌から始まっています。
夜もすがら契りしことを忘れずは恋ひむ涙の色ぞゆかしき
知る人もなき別れ路に今はとて心ぼそくもいそぎ立つかな(『後拾遺和歌集』)
(現代語訳)一条院の時代に皇后宮が崩御された後、几帳の垂れ布の紐に結び付けられていた手紙を見つけたところ、天皇にもお見せくださいというように、歌が3首書き付けられていた、その中に
「夜通し約束したことをお忘れでなければ、私を恋しく思われるでしょう。そのあなたの涙の色は悲しみのあまり流す血の色なのでしょうか。
誰も知る人のいない死出の旅路に、今はもうこれまでと心細い気持ちで急ぎ出立することです」という歌があった。
土葬を望んだのは、夫と子のいる現世に未練があったからか
三度目の出産で自らの命が危ういことを悟っていたのでしょう。出産間近に産婦の部屋のしつらいがすべて白色に替えられた時、定子は一人で遺詠の和歌を詠み、寝室の几帳の紐に結び付けたと考えられます。その歌は、出産と崩御の騒動が一段落した時に見つかりました。
最初の歌は定子から一条天皇に宛てたものです。道長の監視下でなんとか逢瀬が叶った時、一条天皇と定子は時間を惜しんで夜通し共に過ごしていたのでしょう。その時交わした言葉を支えにしてきた定子が、断ち難い一条天皇への恋情を歌ったものです。
次の歌は死を覚悟した定子の辞世歌です。辛い現世から逃れて旅立つあの世より、夫や幼い子供たちが残る現世に惹かれる思いが伝わります。そして、『後拾遺和歌集』が採録していない定子の3首目の歌は、先の2首と共に『栄花物語』に記されています。それは、自分の葬儀の方法を示唆するものでした。
(現代語訳)「煙にも雲にもならない私の身であっても、草葉に置く露を私だと思って偲んでください」
亡くなった後に煙や雲になるのは、当時一般的だった火葬による葬儀を意味していますが、定子は火葬ではなく土葬を希望しました。土葬だから、土の上に生える草葉の露を私だと見てくれと言うのです。定子は火葬にされ煙となって天上に消えてしまうより、この世の土に残って子供たちを見守りたいと願ったのではないでしょうか。その言葉に従って、定子は土葬に付されました。
一条天皇の辞世の歌は彰子宛てではなく定子を想ったものか
それから11年後の寛弘8年(1011)6月、一条天皇は32歳で崩御することになります。『栄花物語』では、崩御の3日前に出家した際の天皇の詠歌を記しています。
(現代語訳)「露のようにはかないこの身が仮の宿としていた現世に、あなたを置いて出家してしまうのは悲しいことです」
これを現世に残る中宮彰子に詠んだ歌とするのは、おそらく『御堂関白記』で道長が書いたことを受けたもので、『権記』に記されたこととは異なっています。3つの資料は一条天皇が和歌を詠んだ状況や歌の言葉に少しずつ違いがあるのです。一条天皇の側に長く仕えていた藤原行成の日記によれば、辞世の歌は天皇が崩御する前日に定子に寄せて詠んだもので、その時、この歌を聞いた人々で涙を流さぬものはいなかったということです。
一条天皇と定子の純愛は、『源氏物語』の桐壺帝と桐壺更衣のモデルになったという考え方もあり、平安の昔から現代まで多くの人の心をとらえる悲恋の物語となっています。