あまりにも強すぎて中華を蹂躙した「戦神」昭王の伝説

「中華統一」の兆しが見え始めたのは恵文王の2代あと、昭王の時代だ。『キングダム』の王騎おうきが仕えた、あの昭王である。

昭王もまた王位を継承したが、数年後には自らを「西帝せいてい」と称し、東の大国である斉の王に「東帝」の号を贈った。この頃になると、多くの国の君主は「王」を名乗るようになっていた。もちろん法家改革によって君主権の拡大に成功したのは秦だけだったが、どの国も周の秩序圏から離脱を図っていた。昭王は「王」よりさらに上位の称号として「帝」を自らに冠し、斉王にも「帝」号を与えたのだ。

つまりこの時代、昭王は単に自国の頂点に立つだけにとどまらず、他国を凌いだ地点でトップの位置に立とうとしていたのである。すでに「中華統一」を頭に描き、その前段階として、東にある大国・斉と、天下を二分しようとしたのかもしれない。しかし、帝号を贈られた斉の湣王びんおうは当初「東帝」を名乗ったものの、統一は念頭になく、すぐにこれを廃してしまったため、昭王も西帝を名乗ることを取りやめた。

結局「二帝」時代は長く続かなかったが、昭王が王を凌ぐ「帝」を用いたことの意味は大きい。始皇帝となる嬴政が誕生するおよそ30年前に、秦は「戦国七雄」という枠組みから、一歩も二歩も抜きん出ていたのである。

老いた昭王と若き日の王騎
若き日の王騎が仕えた昭王は「西帝」を名乗り、秦を中華統一に大きく近づけた。出典=『始皇帝中華統一の思想「キングダム」で解く中国大陸の謎』、漫画『キングダム』(原泰久作、ヤングジャンプコミックス)5巻より©原泰久/集英社