秦の兵士が強かったのは軍功があれば将軍にもなれたから

『キングダム』での信は、五か国連合と戦った「合従軍」戦の武功で、すでに土地を受け取っている。漫画では描かれていないが、このあとも軍功を挙げ続けていけば、やがて王騎おうきのように自らの都市を治めることができるようになるはずだ。

秦の役人は年間の成績が記録され、その成績順に位を上げていくが、軍功がある者は一気に地位を上げる。とりわけ敵の首をとることで一足飛びに高い地位を得られるので、命がけで戦う。秦の兵士の強さはここに大きな理由があった。

一方で、商鞅は公族にもこの軍功爵制を適用した。

変法の前までは、君主と血縁のある家系(公族)であれば、戦場で特別な功績がなかったとしても高位に就くことができた。秦に限らず、これが周以来の春秋戦国時代のスタンダードだ。

ところが軍功爵制の発令後は、たとえ君主と血がつながっている者であっても、軍功を挙げなければ公族の地位を剝奪されるようになった。君主の側近、寵臣たちも、当然ながら例外ではない。徹底した軍功爵制の適用によって、支配層の氏族的特権も容赦なく剝ぎとられていった。

嬴政の弟のように王族でも軍功がなければ出世できなかった

ここで思い出されるのは成蟜せいきょうのエピソードだ。『キングダム』で、秦王・嬴政の弟の成蟜は、屯留とんりゅうという地方の有力者の娘を嫁にしている。その屯留で反乱が起きたという報せを受け、成蟜は急ぎ自ら出陣し、鎮圧するという場面があった。

軍功爵制のもとでは王弟といえど、必要とあらば戦に出て功績を挙げなければならない。そのためには、常備軍を維持する必要があるが、常日頃から兵を訓練し将を養うには、彼らに毎年、俸給を出さなければならない。それには、領上を持ち、毎年、税を得る必要があるし、自分を支えてくれる有力者は貴重な存在だ。

屯留という自分の後ろ盾となる地域で反乱が起きたからこそ、成蟜は自ら鎮圧に向かったのだ。

屯留を救った成蟜
出典=『始皇帝中華統一の思想「キングダム」で解く中国大陸の謎』、漫画『キングダム』(原泰久作、ヤングジャンプコミックス)34巻より ©原泰久/集英社

「分異の令」で、個人を親族や宗族から切り離して氏族制を解体し、単婚家族を「什伍じゅうごの制」で相互監視させて課税と徴兵の単位とし、軍功爵制で公族や支配層の氏族制まで壊した商鞅の変法。結果、ローカル権力者は解体され、既得権を持っていても功績を挙げられなかった公族や家臣は没落していった。

一方、新たに爵位を得て君主に忠誠を誓う、信のような成り上がりの武将が出現した。国内の有力者の権力を剥ぎ取り、君主の実験を増やしていったのだ。

法家の「法」は、現代でいう法律とは異なる。歴史の教科書などでは、法家の特徴は「信賞必罰」の徹底にある、と書かれていることが多いようだ。厳格なルールを設け、それに違反した者には罰を下し、功績のある者には褒美を与える。ムチで国民を縛り、アメを与えて忠誠心を君主に向けさせるという単純なものである。

しかしこれは、当時の氏族制社会を真っ向から否定するものでもあった。その点から見れば、法家導入の最大の意義は「平等性」にあったと言えよう。