旧民法の犠牲になり26歳で死んだ童謡詩人・金子みすゞ

しかし、戦後の新民法施行まで生き延びられなかった多くの女性は、古い民法のせいで、ひどい目にあってきた。夫の暴力に耐えた妻も多かったし、離婚できたとしても、かわいがって育ててきた子を取り上げられた母親も少なくない。

詩人金子みすゞは25歳で生涯を閉じた
詩人金子みすゞは26歳で生涯を閉じた(写真=https://www.nippon.com/en/japan-topics/c09201//PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons

著名な人物では、詩人の金子みすゞ(1903~30年)が思い浮かぶ。そう、あの「みんなちがって、みんないい」の金子みすゞである。彼女は、三淵嘉子(1914~84年)より11歳上で、嘉子が明治大学専門女子部に入る前に亡くなっているが、わずか26年の生涯は、あまりにも壮絶だった。

山口県長門市仙崎に生まれたみすゞ、本名・金子テルは優しい父母に育まれ、読書家で成績優秀。大津高等女学校を総代で卒業するほどだったが、教師の「卒業後は奈良女子高等師範へ進学し、教師になったら」という勧めを断って、家業の「金子文英堂」(書店兼文具店)を手伝うことにする。事業のため満州に渡った父親が横死したという家庭の事情もあったらしい。

しかし、下関市の大きい商家「上山文英堂」(金子文永堂はその支店のような立場だった)に嫁いでいた叔母(母の妹)が亡くなり、みすゞの母がその夫と再婚することになった。みすゞも母に付いて都会の下関に引っ越す。これまでは叔父、そして新しい父となった上山松蔵は、モラハラをするような男ではなかったようだが、当時の家長として家の全てを決める権限を行使した。

義理の父親にその部下と結婚させられ、人生が暗転

みすゞは「上山文英堂」のひとつの店舗で大好きな本に囲まれながら楽しく仕事をし、文学の才能も発揮しはじめていた。自作の詩を雑誌『童話』に投稿して掲載され、主宰の西條さいじょう八十やそから認められ、毎月のようにみずみずしい感性で綴った詩を発表。しかし、そんな明るい青春の日々は、松蔵がみすゞを店の手代格の男と結婚させたことで暗転する。

そこには複雑な事情があって、松蔵の後継者であった正祐まさすけ(のちの劇作家・上山雅輔)は実はみすゞと血がつながった弟。生まれてすぐ金子家から松蔵夫婦のもとへ養子に出されたのだが、そのことは、実母(みすゞの母)と松蔵が結婚してからも秘密にされていた。みすゞのことを従兄姉いとこだと思う正祐は、文学的な感性でも通じ合っていただけに、一心にみすゞを慕う。当時、いとこ同士の結婚は珍しくなかった。実の姉弟なのに、それは言えないという状況に焦った松蔵は、みすゞを早く他の男と結婚させたかったのだという。