「私は失敗した!」夫や息子たちに裏切られた梅子の魂の叫び
「もうダメ、降参。私は全部失敗した。結婚も家族の作り方も、息子たちの育て方も、妻や嫁としての生き方も全部!」
ドラマ「虎に翼」(NHK)で、ついに念願の裁判官(判事補)となった寅子(伊藤沙莉)。第13週「女房は掃きだめから拾え?」では、1949年(昭和24)、大学女子部法科および法学部時代の同級生、梅子(平岩紙)と10年ぶりの再会を果たしてからのストーリーが描かれた。
新設された家庭裁判所で、寅子は年上の友人であった梅子と再会。1932年(昭和7)、梅子は、大学の予科である女子部に入った時点で唯一の既婚者であり、有名な弁護士の大庭と結婚していた。しかし、大庭は今で言うなら典型的なモラハラ夫。何かと言えば妻のことを「役に立たない」とディスり、寅子たちの前でも妻サゲ発言をする。いつもは、学生たちのお母さんポジションでニコニコしている梅子が、そのときだけは「スン」と、当時の女性たちがよく見せる“心を殺した”表情になってしまったことに、寅子は気づいた。
梅子は、弁護士という立場にありながら女性蔑視思想に満ちた夫や、その思想をそっくりそのまま受け継いだ東京帝大生の長男に対抗するため、法律家を志していた。それは旧民法では、離婚しても母親は親権を持てず、否応なしに子どもを取り上げられてしまうからでもあった。「次男と三男だけは、夫のような人間にしたくない」。それが梅子の願いだった。
「女性に優しい男」に育てた三男を「夫の愛人」に利用された
猛勉強の末、寅子と共に高等試験法科(現在の司法試験)を受ける直前まで行ったが、試験の日、若い愛人ができた夫から離婚届を突きつけられ、「もう息子たちには会えないぞ」と宣告される。梅子は幼い三男を取り上げられないために、三男を連れて逃亡する。しかし、生活費を稼ぐ手段もない梅子は婚家に戻るしかなく、結局、戦争が激化した苦難の時代を大庭の妻として生きてきた。
しかし、戦後に夫が亡くなり、遺産相続問題が勃発。梅子の産んだ3人の息子と、夫の愛人が遺産をめぐって争う状態になり、家庭裁判所に相談に来たのだった。愛人は「ダンナさまが書いてくれた」という遺言書を持っており、全財産の相続を要求するのだが、当然、長男と次男、そして夫の母は猛反発。梅子にも、これまでの苦労を思えば相続放棄はできないという意地があったのだが、心の支えである三男が、女性に優しい子に育てたからか、あろうことか夫の愛人と恋仲になって彼女の味方をするので、ついに「白旗を揚げるわ」と、全てを捨て、婚家を出ることにしたのだった。
弁護士夫人で最年長の法学部学生だった梅子のモデルは?
寅子のモデル・三淵嘉子の周辺には、梅子のモデルらしき人は見当たらない。嘉子が学んだ明治大学専門女子部の学生には弁護士夫人もいたということで(佐賀千惠美『三淵嘉子・中田正子・久米愛 日本初の女性法律家たち』)、その人がモデルかもしれないし、女性初の判事補となった石渡満子という見方もできる。
石渡は、お茶の水の東京女子高等師範学校を卒業すると同時に結婚し家庭に入るが、8年後に離婚。そこから明治大学に入って法学を勉強し、終戦の年、高等試験司法科に合格した。嘉子よりはやや遅れて弁護士資格を取得した石渡がモデルだとすると、梅子にも今後、「主婦から判事へ」というキャリア大逆転の展開が待っているのかもしれない。
ドラマでは、元法学部生である梅子が、弁護士になるという夢を絶たれながらも、1947年(昭和22)12月にGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の主導で改正された新しい民法の条文を暗記している様子が描かれた。
旧民法の内容を知って「結婚って罠」と叫んだ寅子
民法七百三十条「直系血族および同居の親族は、互に扶け合わなければならない」
この条文を逆手に取り、婚家を出て大庭家の息子たちや義母とは「直系血族」でもないし「同居」もしていないという状態にし、梅子は晴れて自由になった。新しい民法だから実現できた捨て身の選択だった。
これまで「虎に翼」でも描かれてきたように、1896年(明治29)に成立した旧民法は男性中心の「家制度」を守るためのものだった。家や財産の相続は嫡男のみができ、離婚しても子の親権は父親に行く。結婚した女性は「無能力者」とされ、家のお金を使うにも訴訟をするにもどこかで雇われて働くにも、いちいち夫の許可がいる。もちろん離婚も、どんな暴力亭主やモラハラ夫だとしても、その夫が承諾しなければ、成立しない。
「罠だよ罠。結婚って罠。結婚すると女は男に全部権利を奪われて、離婚も自由にできないって、誰かに教えてもらった?」
法学部時代の寅子がそう叫んだのも納得できる、あまりにも女性の人権を無視した法律である。もっともその後、弁護士となった寅子は、「罠」だと忘れたかのようにあっさり元書生の優三(仲野太賀)と結婚したのだが、それは優三がけっしてひどい仕打ちをしない人だと分かっていたからかもしれない。
旧民法の犠牲になり26歳で死んだ童謡詩人・金子みすゞ
しかし、戦後の新民法施行まで生き延びられなかった多くの女性は、古い民法のせいで、ひどい目にあってきた。夫の暴力に耐えた妻も多かったし、離婚できたとしても、かわいがって育ててきた子を取り上げられた母親も少なくない。
著名な人物では、詩人の金子みすゞ(1903~30年)が思い浮かぶ。そう、あの「みんなちがって、みんないい」の金子みすゞである。彼女は、三淵嘉子(1914~84年)より11歳上で、嘉子が明治大学専門女子部に入る前に亡くなっているが、わずか26年の生涯は、あまりにも壮絶だった。
山口県長門市仙崎に生まれたみすゞ、本名・金子テルは優しい父母に育まれ、読書家で成績優秀。大津高等女学校を総代で卒業するほどだったが、教師の「卒業後は奈良女子高等師範へ進学し、教師になったら」という勧めを断って、家業の「金子文英堂」(書店兼文具店)を手伝うことにする。事業のため満州に渡った父親が横死したという家庭の事情もあったらしい。
しかし、下関市の大きい商家「上山文英堂」(金子文永堂はその支店のような立場だった)に嫁いでいた叔母(母の妹)が亡くなり、みすゞの母がその夫と再婚することになった。みすゞも母に付いて都会の下関に引っ越す。これまでは叔父、そして新しい父となった上山松蔵は、モラハラをするような男ではなかったようだが、当時の家長として家の全てを決める権限を行使した。
義理の父親にその部下と結婚させられ、人生が暗転
みすゞは「上山文英堂」のひとつの店舗で大好きな本に囲まれながら楽しく仕事をし、文学の才能も発揮しはじめていた。自作の詩を雑誌『童話』に投稿して掲載され、主宰の西條八十から認められ、毎月のようにみずみずしい感性で綴った詩を発表。しかし、そんな明るい青春の日々は、松蔵がみすゞを店の手代格の男と結婚させたことで暗転する。
そこには複雑な事情があって、松蔵の後継者であった正祐(のちの劇作家・上山雅輔)は実はみすゞと血がつながった弟。生まれてすぐ金子家から松蔵夫婦のもとへ養子に出されたのだが、そのことは、実母(みすゞの母)と松蔵が結婚してからも秘密にされていた。みすゞのことを従兄姉だと思う正祐は、文学的な感性でも通じ合っていただけに、一心にみすゞを慕う。当時、いとこ同士の結婚は珍しくなかった。実の姉弟なのに、それは言えないという状況に焦った松蔵は、みすゞを早く他の男と結婚させたかったのだという。
夫から性病をうつされ、評価されていた詩作も禁止に
みすゞと夫の間には女児が生まれ、一時期はみすゞも幸せそうだったというが、夫は女遊びが激しく、遊郭に通っていた。そのことがばれて、夫は上山文英堂をクビになる。さらに、夫が外からもらってきた性病をみすゞにうつし、当時は完治させる手立てもなかったので、みすゞは下半身の痛みなどに苦しむようになる。
さらに文学を解しない夫は、みすゞに詩作を禁じる。その時点で、みすゞは童謡詩人会で与謝野晶子に続く2人目の女性会員となるほど、中央でも認められていたのに、である。そして、夫婦と幼い子の3人で下関市内を転々と引っ越しながら、なんとか家庭を立て直そうとするが、病気の悪化もあって、みすゞは26歳にして、その後の人生をあきらめてしまった。
民法の規定で最愛の娘を取り上げられることなり、絶望
みすゞは病による死期を悟ったのかのように、自作の詩を手書きの詩集にまとめ、師である西條と正祐に渡す。そして、1930年(昭和5)、ついに夫と別居し、3歳の娘を連れて上山文英堂へ戻る。せめてそこで残された日々を幼い娘と心穏やかに過ごそうと決めていたのだが、すぐに夫から「3月10日に娘を引き取りに行く」という通知が来る。
旧民法では、どんなに夫に落ち度がある離婚でも、子は父親のものとされた。妻に親権と拒否権はなかった。その現実に最後の希望を打ち砕かれ、みすゞは3月9日に、近くの写真館で写真を撮ってもらうと、娘をお風呂に入れ、夜、娘が寝付いたのを見てから、命を絶ったという。翌日、最愛の娘を強制的に奪われるのが、耐えられなかったのだろう。
みすゞは遺書を3通残しており、そのうちの1通は娘を引き取ろうとする元夫宛てだった。
「あなたがふうちゃん(娘)をどうしても連れていきたいというのなら、それは仕方ありません。でも、あなたがふうちゃんに与えられるものはお金であって、心の糧ではありません。私はふうちゃんを心の豊かな子に育てたいのです。だから、母ミチにあずけてほしいのです」
と娘の養育を自分の母に託すよう求めるものだった。その命をかけた願いは聞き届けられ、娘はそのまま母の元で育つ。
「私と小鳥と鈴と」「こだまでしょうか」「大漁」など、自然と動植物を愛する少女の感性を保ち続け、それを美しい詩に結晶させた金子みすゞの文学的功績は、その壮絶な私生活によってイメージダウンするべきではない。しかし、旧民法と家制度に縛られた当時の女性として、自由に羽ばたけなかった人生だったからこそ、想像の世界で綴られたその詩はいっそう輝くものになったのではないだろうか。
参考文献:『別冊太陽 新版金子みすゞ』(矢崎節夫監修、平凡社2023年)