夫から性病をうつされ、評価されていた詩作も禁止に

みすゞと夫の間には女児が生まれ、一時期はみすゞも幸せそうだったというが、夫は女遊びが激しく、遊郭に通っていた。そのことがばれて、夫は上山文英堂をクビになる。さらに、夫が外からもらってきた性病をみすゞにうつし、当時は完治させる手立てもなかったので、みすゞは下半身の痛みなどに苦しむようになる。

さらに文学を解しない夫は、みすゞに詩作を禁じる。その時点で、みすゞは童謡詩人会で与謝野晶子に続く2人目の女性会員となるほど、中央でも認められていたのに、である。そして、夫婦と幼い子の3人で下関市内を転々と引っ越しながら、なんとか家庭を立て直そうとするが、病気の悪化もあって、みすゞは26歳にして、その後の人生をあきらめてしまった。

民法の規定で最愛の娘を取り上げられることなり、絶望

みすゞは病による死期を悟ったのかのように、自作の詩を手書きの詩集にまとめ、師である西條と正祐に渡す。そして、1930年(昭和5)、ついに夫と別居し、3歳の娘を連れて上山文英堂へ戻る。せめてそこで残された日々を幼い娘と心穏やかに過ごそうと決めていたのだが、すぐに夫から「3月10日に娘を引き取りに行く」という通知が来る。

旧民法では、どんなに夫に落ち度がある離婚でも、子は父親のものとされた。妻に親権と拒否権はなかった。その現実に最後の希望を打ち砕かれ、みすゞは3月9日に、近くの写真館で写真を撮ってもらうと、娘をお風呂に入れ、夜、娘が寝付いたのを見てから、命を絶ったという。翌日、最愛の娘を強制的に奪われるのが、耐えられなかったのだろう。

みすゞは遺書を3通残しており、そのうちの1通は娘を引き取ろうとする元夫宛てだった。

「あなたがふうちゃん(娘)をどうしても連れていきたいというのなら、それは仕方ありません。でも、あなたがふうちゃんに与えられるものはお金であって、心の糧ではありません。私はふうちゃんを心の豊かな子に育てたいのです。だから、母ミチにあずけてほしいのです」

と娘の養育を自分の母に託すよう求めるものだった。その命をかけた願いは聞き届けられ、娘はそのまま母の元で育つ。

「私と小鳥と鈴と」「こだまでしょうか」「大漁」など、自然と動植物を愛する少女の感性を保ち続け、それを美しい詩に結晶させた金子みすゞの文学的功績は、その壮絶な私生活によってイメージダウンするべきではない。しかし、旧民法と家制度に縛られた当時の女性として、自由に羽ばたけなかった人生だったからこそ、想像の世界で綴られたその詩はいっそう輝くものになったのではないだろうか。

参考文献:『別冊太陽 新版金子みすゞ』(矢崎節夫監修、平凡社2023年)

村瀬 まりも(むらせ・まりも)
ライター

1995年、出版社に入社し、アイドル誌の編集部などで働く。フリーランスになってからも別名で芸能人のインタビューを多数手がけ、アイドル・俳優の写真集なども担当している。「リアルサウンド映画部」などに寄稿。