前代未聞の「家庭」が生まれてしまう
つまずきの理由は、報告書で提案されていた皇族数確保策の中身があまりにも荒唐無稽なために、立憲民主党などがそのまま受け入れにくいためだ。
そこで提案されている方策の1つは、内親王・女王がご結婚とともに皇族の身分を離れられるこれまでのルールの変更だ。従来のルールままだと、皇室には秋篠宮家のご長男、悠仁親王殿下お一人だけしか残らなくなってしまう。なので、それらの女性皇族方がご結婚後も皇室に残られるルールに変更する。
ただし、女性皇族の配偶者とお子様は、男性皇族の場合と違って「国民」と位置付ける、という内容だ。
これだと、一つの家庭の中に憲法第1章(天皇)が優先的に適用される皇族と第3章(国民の権利及び義務)が全面的に適用される国民が混在する、という極めて不自然な制度になる。附帯決議にあった「女性宮家」とはほど遠く、家族は“同じ身分”が原則となった近代以降、まったく前代未聞の家庭が生まれる。
この点について、立憲民主党の野田佳彦元首相は以下のように問題点を指摘している(『文藝春秋』4月号)。
皇族と国民の夫婦・親子が抱えるリスク
社会通念上、夫婦や親子など家族は“一体”と見られがちだ。そうであれば、内親王・女王の配偶者やお子様の国民としての自由な振る舞いは、そのまま内親王・女王の振る舞い、さらに皇室そのものの振る舞いと受け取られかねない。
しかし制度上は一般国民である以上、憲法によって保障された自由や権利が恣意的に制約されることがあってはならない。もし法的根拠もない勝手な扱いが許されると、他の国民にも同じやり方が拡大される危険性をはらむ。
そうすると先のプランは、憲法が天皇の地位について公正中立・不偏不党が期待される「日本国の象徴」「日本国民統合の象徴」と規定し、政治への関与を禁止することとも、明らかに抵触する。
女性皇族も国事行為を代行する可能性が
しばしば見逃されがちながら、内親王・女王も制度上、天皇の国事行為の委任を受けたり、それを全面的に代行する摂政に就いたりする可能性がある(「国事行為の臨時代行に関する法律」第2条、皇室典範第17条)。皇室の高齢化、少子化の趨勢の中で、その可能性はより高まるはずだ。
内閣総理大臣を任命したり国会を召集したりするなど、天皇の代行に当たる可能性がある女性皇族の配偶者やお子様が一般国民という制度は、無理で無茶というほかない。
したがって普通の感覚に立てば、立憲民主党などがそのようなプランにたやすく同意できないのも当然だろう。
国民民主党の玉木雄一郎代表は先頃、衆参両院議長から各政党・会派への個別の意見聴取を受けた際に、女性皇族の配偶者やお子様を「準皇族」とする新しい身分を設ける提案を行っている(6月19日)。しかし、憲法自体が「国民平等」原則の例外枠とする皇族で“ない”以上、そのような身分は憲法第14条が禁止する「貴族」(第2項)に当たるし、「社会的身分」による差別(第1項)を持ち込む制度だから当然、認められない。
疑問だらけの旧宮家養子縁組プラン
政府提案のもう一つは、皇室を離れてすでに80年近くになるいわゆる「旧宮家」系の子孫男性に対して、今の皇族との養子縁組によって、新しく皇族の身分を与えようというプラン。しかし、これも問題が山積みだ。
そもそも、女性皇族とのご結婚という心情的な結びつきもなく、いずれ皇室にふさわしい国民女性と結婚して男子(!)に恵まれることが“至上命令”とされる厳しい条件下で、自ら国民としての自由や権利を手放して皇籍を取得しようとする該当者が果たして現れるか、どうか。また、そのような養子を迎え入れて「養親」になろうとする皇族がおられるか、どうか。
もっぱら“男子確保”の目的によって、不自然な形で皇族になった男性(プランでは皇位継承資格なし)に対して、幅広い国民が素直に敬愛の気持ちを抱けるか、どうか。率直にいって疑問だらけだ。
さらに、国民平等の例外枠である皇室の方々(皇統譜に登録)ではなく、“国民の中”から旧宮家系という特定の家柄・血筋=門地の者(戸籍に登録)だけが、他の国民には禁止されている養子縁組(皇室典範第9条)を例外的・特権的に認められるプランは、憲法が禁じる「門地による差別」(第14条)に当たる疑いが、いまだに払拭されていない。
その上、旧宮家系子孫男性は広い意味では「皇統に属する男系の男子」であっても、歴史上の源氏や平家などと同じく、すでに“国民の血筋”となっている。何より当事者自身も「皇統に属さない」という自覚を持っている(竹田恒泰氏『伝統と革新』創刊号、平成22年[2010年])。
その旧宮家系子孫から将来、もしも天皇に即位する事態になれば、これまでの皇統はそこで断絶する。旧宮家系という国民出身の“新しい王朝”に交替する結果になる。とても危ないプランだ。
だから、このような提案に対しても即座に同意できない党派が国会に存在するのは、当たり前だろう。