給料に差をつけず組織力で優れる三菱商事が戦後に大逆転

かくして、同じ財閥系総合商社といいながら、三井物産と三菱商事の人事・社風は全く別物であり、両社の業績にも大きな差が付いた。1937~43年の業界シェアの平均は、三井物産が18.3%、三菱商事が10.3%で、ほぼ倍近い。

第二次世界大戦で日本が敗戦すると、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)によって日本が占領され、財閥が解体された。その際、三井物産と三菱商事は徹底的に解散させられた。紙幅の関係から詳細は略すが、結果、元従業員が設立した新会社は百数十にものぼった。

巷間では「人の三井」「組織の三菱」といって社風を比較するが、これはそもそも三井物産と三菱商事の違いを表したものだという。両社は解散にあたっても全く違った動きをした。

GHQに解体させられ、三井物産は内輪もめで再生が遅れた

三井物産は気の合う同士で新たに会社を興した。一方の三菱商事は、将来の再統合を見据えて部課単位に会社を作らせた。そして、1952年4月に日本占領が解除され、再結集が可能となると、三菱商事では長老(元社長)が陰で再結集への助言をして、新会社の合併を繰り返し、2年後の1954年7月に「大合同」を成し遂げて、三菱商事を復活させた。

一方、三井物産でも合併を重ね、2社に収斂しゅうれんされたのだが、元物産の長老2人が、それぞれの商社に肩入れし、両長老の意向を反映して現役社長も大合同を目前に控えながら、あえて踏み切ることをためらっていたという。結局、片方の商社が業績不振に陥り、弱気になってやっと合併協議が煮詰まり、1959年2月に三井物産の大合同となった。大合同がもたつく間、三井物産は三菱商事に商社トップの地位を奪われ、以来、後塵を拝するに至った。

(戦後の)昭和は三菱の時代だった。「オレがオレが」のバイタリティで戦前を制した三井物産は、その社風が裏目に出た。しかし、現在の好調ぶりから考えると、令和の日本では、昭和の成功体験を忘れ、戦前の物産風ビジネスがもっと見直されるべきではないだろうか。

菊地 浩之(きくち・ひろゆき)
経営史学者・系図研究者

1963年北海道生まれ。國學院大學経済学部を卒業後、ソフトウェア会社に入社。勤務の傍ら、論文・著作を発表。専門は企業集団、企業系列の研究。2005~06年、明治学院大学経済学部非常勤講師を兼務。06年、國學院大學博士(経済学)号を取得。著書に『企業集団の形成と解体』(日本経済評論社)、『日本の地方財閥30家』(平凡社新書)、『最新版 日本の15大財閥』『織田家臣団の系図』『豊臣家臣団の系図』『徳川家臣団の系図』(角川新書)、『三菱グループの研究』(洋泉社歴史新書)など多数。