最初から能力のある人でも抜擢しないのが日本企業
うなぎ屋の修行を表す言葉に「串打ち3年、裂き8年」がある。つまり、11年は修行しろってことだ。高校野球でも、大谷翔平レベルの才能がなければ、1年生をいきなりレギュラーにすることはない。しかし、昨今の若者はこうした風潮を嫌い、入社1年目でも責任ある難易度の高い業務を望むという。
よほどの能力がある人でも抜擢してくれないのが日本企業である。しかし、戦前にはセンスがあってクリエイティブな人材を抜擢して成功した企業があった。三井物産である。
呉服屋だったのに……150年前に三井物産ができたワケ
三井物産は1876(明治9)年7月に三井家によって設立された。ただし、その設立経緯が実に怪しげである。
江戸時代以来の大富豪・三井家は、呉服店から身を起こして両替商(金融業)にも手を伸ばしていたが、明治維新後、本業ともいうべき呉服店の業績が振るわず、銀行業への本格進出を渇望した。これに対し、明治政府の財政を握っていた井上馨は「祖業たる呉服店を切り離したら、銀行設立してもイイよ」と無理難題をふっかけた。これであきらめるだろうとタカをくくっていたのだが、そこは商売人の三井家。形式上、呉服店を三井家の財産から切り離して、銀行設立を成就した。三井銀行、現在の三井住友銀行である。
今でこそ、三井グループは金融、商社、不動産、製造業(化学、金属、造船)など多くの業種を網羅しているが、当時の三井家の事業は呉服店と両替商だけだったので、前者を切り離すと、後者の銀行一本になってしまう。ここで銀行が破綻すると、百数十年の歴史を持つ三井家が路頭に迷ってしまう。そこで、裏番組の事業設立を目論んだ。それが三井物産なのである。つまり、銀行が破綻した時の保険のような扱いだった。
ところが、事実上の社長になった益田孝はとんでもない切れ者で、ほとんど資産ゼロだった会社を、日本有数の大会社に育て上げた。1880年代になると、益田は紡績業の勃興を見越して紡績機械や棉花の輸入に力を入れ、1890年代には外国間売買で成功。1900年代に三井物産の取引額は約2億円に達し、わが国貿易額の2割強を占めるに至ったのだ。