義母から解放され、異国文化を吸収して考えが柔軟になった
ノブは明治25年(1892)生まれ。夫・貞雄に従ってシンガポールに移り住んだ頃はまだ若く、好奇心が旺盛で思考も柔軟だった。新たに見たものや体験したことが上書き修正されて、その考え方は変化してゆく。
シンガポールは日本人以外にも現地のマレー人や中国、インドからの移民、さらには、支配者のイギリス人をはじめ欧米各国からやってきた様々な国籍の人々が住んでいた。生まれ育った環境が違えば、服装や行動様式はかなり違ってくる。
当時の人々は現代人と比べて、日本食や日本製品への執着が強く、グダン族の駐在員一家もミドル・ロードの日本人街にはよく足を運んだ。ノブや貞雄もそうだった。
「下町族」の領域である日本人街にもよく出かけた。
そこに住む日本人は、同じ日本人でありながら自分たちのようなグダン族とは違う生活習慣や思考を持っている……。この世に生きる人々には、様々な生き様や考え方があるものだ。あたり前のことなのだが。片田舎の暮らしでは、知り得なかったことだった。
外地での新婚生活でノブが知ったこと、そこから起きた心境の変化。それが、嘉子の教育やその将来にも大きくかかわることになる。
最初の子はシンガポールで生まれたから「嘉子」と名付けた
半円形の窓に施された漆喰装飾やパステルカラーの家々がならぶ街並みに、南国の強い日差しが降り注ぐ。通りに軒をつらねる建物の大きく張り出した屋根は、アーチ状の柱で支えられ、それが日差しを避ける格好の通路として機能していた。
軒下にできた日陰の小径を、つばのないイスラム帽を被かぶったマレー系の男性、鮮やかな色のサリーを身にまとったインド人女性、でっぷりと肥えた商店主風の中国人など、さまざまな人種が行き交う。
三淵嘉子が生まれてはじめて目にしたのは、おそらく、こんな感じの眺めだろうか。彼女は大正3年(1914)11月13日にイギリス領シンガポールで生まれている。名前に使われている「嘉」の一字も、シンガポールの漢字表記「新嘉坡」に由来する。
熱帯の街での暮らしは、まだ赤ん坊だった嘉子の記憶に残っていないだろう。が、彼女の父母の意識には、この異文化体験が少なからぬ影響をもたらしたようだ。それは帰国後の子どもたちの教育にも影響する。
滞在中に生まれた嘉子が2歳になった時、貞雄はニューヨークに転勤となり、彼女は母・ノブとともに丸亀の実家へ戻って父の帰国を待った。シンガポールから日本へ。嘉子もまた周辺環境の激変に困惑しただろうか。しかし、当時はまだあまりに幼く、丸亀での暮らしについて彼女はほとんど記憶していない。
大阪芸術大学卒業。近・現代史を中心に歴史エッセイやルポルタージュを手がける。著書に『ウソみたいだけど本当にあった歴史雑学』(彩図社)、『牧野富太郎~雑草という草はない~日本植物学の父』(角川文庫)などがある。