※本稿は、青山誠『三淵嘉子 日本法曹界に女性活躍の道を拓いた「トラママ」』(角川文庫)の一部を再編集したものです。
嘉子の母ノブは55歳のとき、脳溢血で突然倒れ死去した
昭和22年(1947)1月19日に嘉子の母・ノブが亡くなった。何の予兆もなく突然に。
母は老いても元気で、家事をよくこなし孫の世話をしながら過ごしていたのだが、庭先で洗濯物を干している時に突然倒れて、そのまま亡くなってしまったのである。脳溢血による突然死だったという。
嘉子が家の中で唯一敵わない相手が母だった。お転婆や無作法なことをやらかしてよく叱られた。しかし、口うるさいのは自分を心配してくれているから。小言を言いながらも親身になって色々と世話を焼いてくれる。そこには深い愛情も感じていた。
また、悲劇はこれだけでは終わらない。同年の10月28日には、ノブの後を追うようにして父・貞雄も亡くなってしまう。貞雄は酒が好きだった。ノブがいなくなってからは悲しみを酒で忘れようとしていたのか、酒量がかなり増えていた。その死因は肝硬変によるものだったという。
母に続いて同年に父も……、母は養女、父は婿養子だった
嘉子の父・武藤貞雄は東京帝国大学法科卒業のエリート。彼が勤務する台湾銀行は大正元年(1915)にシンガポール出張所を開設し、そこへ転勤を命じられて新妻のノブを伴い赴任していた。
貞雄は四国・丸亀の出身で、地元の名家・武藤家に入婿して一人娘のノブと結婚した。ノブもまた当主・武藤直言の実子ではない。彼女の実父は若くして亡くなり、6人の子だくさんだった一家は生活に窮してしまう。そのため末っ子だった彼女は、伯父の直言に養女として引き取られた。
直言には子どもがいない。自分と血のつながるノブに婿を取らせて家を存続させる。最初からそれが養子縁組の目的だったのだろう。
武藤家は金融業などを営む資産家で、大きな屋敷をかまえていた。しかし、かなりの倹約家でもある。家のことを取り仕切る義母・駒子も質素倹約の家風をかたくなに守り、まだ幼かったノブにも容赦なくそれを叩き込んだ。便所紙を使いすぎるとか、些細なことですぐに説教される。また、掃除や洗濯などの家事にもこき使われた。倹約家なだけに、広い家に見合うだけの女中を雇っていなかったのだろうか。
義母はかなり細かく几帳面な性格でもあり、一切の妥協を許さない。仕事に手抜かりがあればまた叱責される。ノブとは血縁のない赤の他人。血の通った母娘であれば、その受け取り方もまた違っただろうが。
義母の小言は、女中奉公にだされた先で女主人から叱られているよう。そこに愛を感じることはなかったようである。幼な子が親元を離れて暮らすのは辛い。それにくわえてこの仕打ち。恨んだこともあっただろう。