秀長が長生きなら徳川家康も豊臣家を滅ぼせなかっただろう
ちなみに同書は秀長の功績や人柄についても触れています。それによると秀長は「関白殿下(秀吉)が未だ藤吉郎と言っている頃から、諸所の合戦に立ち向かって、武功が多かった」とあります。「弟道を尽され、兄弟の序を貫き、まこと真義の道厚き御仁に候」という言葉に至っては、秀長への最大の賛辞と言うべきでしょう。また、胆略(大胆で知略がある)があり、物に動ぜす、数々の武功があっても驕らず「大気の人」だったと同書は秀長を絶賛しているのです。
繰り返すように、朝鮮出兵や秀次事件はどうすることもできなかったでしょうが、秀吉死後は、秀長は豊臣政権の重鎮として、家康に勝手なことはさせなかったと推測されます(秀長の存在があれば、家康は勝手な行動をしなかったとも推測されます)。もし家康が勝手な振る舞いに及んでも、人望により諸大名を味方に付けて、討伐していたと思われます。関ヶ原の合戦が起こったとしても、石田三成方(秀長方)が勝利していた可能性は十分あるでしょう。
空想に空想を重ねましたが、そうしたことを考えた時、秀長という人物を早くに亡くしたことは、幼い秀頼とその母・淀君が舵取りすることになった豊臣家にとって大きな痛手だったと言えます。
1983年生まれ、兵庫県相生市出身。歴史学者、作家、評論家。姫路日ノ本短期大学・姫路獨協大学講師を経て、現在は大阪観光大学観光学研究所客員研究員。著書に『播磨赤松一族』(新人物往来社)、『超口語訳 方丈記』(彩図社文庫)、『日本人はこうして戦争をしてきた』(青林堂)、『昔とはここまで違う!歴史教科書の新常識』(彩図社)など。近著は『北条義時 鎌倉幕府を乗っ取った武将の真実』(星海社新書)。