秀吉と秀長の父親は違う男だった可能性もあるが…
江戸時代初期の旗本・土屋知貞がまとめた秀吉の伝記『太閤素生記』には、弥右衛門は秀吉が8歳の時に亡くなったとあります。一方、秀長の父は織田信秀の同朋衆・竹阿弥であったとの説があるのです。弥右衛門が死去して後、なかが、中村出身の竹阿弥に嫁ぎ、秀長や旭(後の徳川家康の正室)を産んだということです。
『太閤素生記』は、秀長が竹阿弥の子であるということから、幼名は「小竹」と言ったとの説を載せています。弥右衛門の没年は天文12(1543)と一般的に考えられていますが、秀長の生まれ年は天文9年(1540)です。こうしたことを見ていくと、秀吉と秀長は異父兄弟ではなく、同母兄弟の可能性が高いと言えるでしょう。「豊臣兄弟」は同じ父母のもとに生まれたと思われます。
さてご存知のように、秀吉はその後、織田信長に仕えて、立身出世をしていきます。弟・秀長は兄に従い、頭角を現わしていき、最終的には100万石を超える大大名にまでなるのです。
織田家中で出世していく兄の右腕、心が広く情け深い人物
では、秀長はどのような人物だったのでしょうか。天正19年(1591)1月22日、秀長は大和郡山城内で52歳にして病死するのですが、そのとき、城内には「米銭金銀」が「充満」していたと言います(『多聞院日記』)。具体的に言うと「金子」は「五万六千枚余」、「銀子」は「二間四方の部屋」にびっしり積み上げてあったということです。秀長には蓄財の才があったと言えるでしょう。当然それは自身のためというよりは、何か事が起こった時のため、豊臣政権の安定化のための蓄財だったと思われます。
歴史学者・渡辺世祐の著書『豊太閤と其家族』(日本学術普及会、1919年)には、秀長は「寛仁大度の人」であったとあります。「寛仁大度」、心が広くて情け深く、度量の大きいことを指します。同書は、秀吉は厳格・峻烈(厳しく、激しい)だったが、秀長はその真逆であり、秀吉の欠点を補っていたと説くのです。秀長あっての秀吉ということもできるでしょう。秀長の人徳を慕い、諸大名は秀長に秀吉への取りなしを頼んだと同書にはあります。