「ここの学生は皆真面目だ」

大学院になると、男子学生の入学を認めることもあるし、ゼミに他の大学の院生が出席するようなこともあるが、基本、教室のなかには女子しかいない。

それは、勉強に集中できることにつながる。その証拠に、東京女子大で、他の大学から非常勤に来ている教員が異口同音に語っていたのは、「ここの学生は皆真面目だ」ということだった。私は共学で教えた経験がほとんどないので比較できないが、女子大の学生が授業に真面目に取り組んでいるのは事実である。

東京女子大のゼミで、和辻哲郎の『古寺巡礼』を取り上げたことがあったが、ゼミで発表するためにわざわざタイまで出掛け、現地の仏教寺院を見てきた学生もいた。

これは東京女子大と日本女子大に共通して言えることだが、卒業論文の提出が必修になっていて、大学の側がその指導にかなり熱心なことも大きい。それも、学生の数が少なく、専任の教員に指導する余裕があるからだ。東京女子大の卒業式では、学長も学部長も卒論の意義を強調していた。

インカレの勧誘は通過儀礼

ただ、男子がいない分、異性との出会いの機会がないことが女子大の欠点として指摘される。この点について、私が見る限り、むしろ反対の気がする。

それは、「インカレ」の存在があるからだ。インカレには複数の意味があるが、この場合には、複数の大学にまたがったサークルの意味である。女子大の学生はけっこうインカレに入っている。

これは日本女子大で教えていたときのことだ。大学のオリエンテーションがはじまった時期、大学に行ってみると、門の前の歩道橋に、早稲田から来たと思しき男子大学生が群がっていて、日本女子大の学生に懸命にインカレのチラシを配っている光景に接して驚いたことがあった。

早稲田は日本女子大に近いのだが、日本女子大は高台にあり、早稲田の学生たちは急坂を登って来たに違いない。失礼ながら私は、女王蜂に群がる雄蜂を連想した。

女子大の学生の側に立ってみれば、これによって、自分たちは男子に求められる側にいるのだと強く感じる。私は宗教学の授業で通過儀礼(イニシエーション)の重要性を説いてきたが、彼女たちにとって、これは強烈なイニシエーションの体験になったはずだ。通過儀礼は人生の節目に訪れ、その人間の立場を根本的に変える働きをするからだ。

笑顔で話しながら歩く学生たち
写真=iStock.com/Yoke Fong Moey
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