敗戦後の日本を元気づけた笠置のブギは役割を終えた

そうした流れを受け、笠置は1956年に日劇「ゴールデン・パレード」と日劇「たよりにしてまっせ」の公演を終えると、舞台出演を中止。「ジャジャムボ」「たよりにしてまっせ」の2曲を吹き込み、年末のNHK紅白歌合戦に出場、大トリで「ヘイヘイブギー」を歌った翌57年早々に歌手を廃業、これからは女優業に専念したいと公表する。

その前年には「もはや戦後ではない」が流行語になり、57年にはテレビ、洗濯機、冷蔵庫の「三種の神器」も一種の流行語となった。同年のレコード売り上げ1位は、フランク永井の「有楽町で逢いましょう」、2位は美空ひばりの「港町十三番地」で、戦後の日本に元気を与えたブギはすでにその役割を終えていたようだ。

歌手廃業の理由について笠置はこう語ったという。

「自分が最も輝いた時代をそのままに残したい。それを自分の手で汚すことはできない」

さらに後年、笠置は自分が太ってきて踊れなくなったからだと述べている〔砂古口早苗『ブギの女王・笠置シヅ子』(潮文庫)〕。

しかし、そもそも笠置はドラマのスズ子と同じく、エイスケとの結婚を考えたとき、歌手引退を考えていた。自伝でも「私も、そうすることがエイスケさんを幸福にする道ならば、断ち切り難いキヅナを切って仕事を放擲ほうてきしようと思いました」「私は非常にわがままな女なのですが、ひとたび身心を捧げる立場になれば、日本女性の御多聞に漏れず、ヌカ味噌くさい世話女房になる型なのです」と書いているように、エイスケが早世していなければ、とっくに廃業していたはずだ。

歌手引退2年前の笠置シヅ子
歌手引退2年前の笠置シヅ子(写真=『アサヒグラフ』1955年12月7日号/PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons

俳優専業に転身したのは娘を養っていくためだった

そんな中、未婚の母となった笠置は、娘・ヱイ子を養うため、歌い続けなければならなかった。俳優としての活動を始めたのもまた、娘のためだった。

笠置の自伝に収録された、映画・演劇評論家、テレビプロデューサーの旗一兵の寄稿に、こんな記述がある。

「ヱイ子ちゃんを育てながらの舞台や映画では疲れる。疲れ休めに林芙美子女史(編集部註:笠置と親交のあった作家)に熱海へ連れて行かれても、温泉宿にジッとしていない。用もないとこへ顔出したり、ヱイ子ちゃんの馬鹿可愛がりで余計疲れて帰ってくる。そういえばヱイ子ちゃんを甘やかし過ぎるほど彼女は可愛がっている。だから少しわがままになっている。彼女の留守の間、これをお守りする人は骨だろうと思う。『そんなこと百も承知ですが、父のいない不憫な子だと思うと、どんなに甘やかしても甘やかし過ぎることはないと思うんです』。この彼女の心情はよくわかる。そしてひとたび、わが子が不憫だと思うと、とめ度もなく盲愛することも彼女らしい」
笠置シヅ子『歌う自画像:私のブギウギ傳記』(1948年、北斗出版社)