自分が10代の青春をかけて推したK-POPスターが、性犯罪者になるという特殊な体験を、映画『成功したオタク』として世に出した22歳の監督オ・セヨン氏。次々と明らかにされる推しの犯罪を目の前に、葛藤し揺れ動く気持ちを日記に綴るように、夢中で撮影に向かわせたものは何だったのか――。

※本稿は、オ・セヨン著、桑畑優香訳『成功したオタク日記』(すばる舎)の一部を再編集したものです。

できるだけ正直でありたいと思ったオタクの日記

「成功したオタク」よりも「失敗したオタク」に近いわたしが、『失敗したオタク日記』ではなく『成功したオタク日記』を書いてもいいのか。「日記」として書く文章は、どれだけ正直であるべきか。そもそも他人に見せることを意識して書く文章は、日記といえるのか。

日記が大好きで、毎日のように日記を書き、はじめて手がけた映画で日記を数ページ読み上げたり、映画をまるで日記のようにつくってみたりもした。正直でありたいという気持ちと日記を書くことへの愛情は、わたしのなかでどんどん大きくなっていった。大きさも厚さもまちまちな数十冊の日記帳には、思いや時がいっぱいつまっている。

でも白状すると、わたしは日記を書くとき、完全に正直にはなれなかった。先生に細かいチェックを受けなければならなかった小学生の頃には、まあよくあることだろう。ところがその後、自分の意思で日記を書くうちに、いつからか、ある種の不安にさいなまれるようになった。もし、日記を失くしたらどうしよう? 日記の主がわたしだとバレて、社会的に葬られてしまうのでは? そんな思いがたびたびよぎった。その時から、わたしは日記帳によそよそしい態度をとるようになった。誰かについて書くときは、名前ではなくイニシャルにした。心の奥底にある悩みよりも、軽い考えや将来への誓いについて書いた。だんだん日記帳を開く回数が減り、過去の日記を読むのも退屈になってしまった。

鉛筆でエッセイを書く学生
写真=iStock.com/Motortion
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『成功したオタク』は正直な映画だ」。観客の方たちのこんな評価が、ありがたくも恥ずかしかった。日記を書くときでさえ正直になれないわたしが、飾らない人間として他者に見られたいと望むというのは、矛盾していて滑稽だ。映画をつくるあいだずっと、自分を見つめて心のすべてを投影しようと努力した。でも、もっと率直になれたかもしれない。観客の方たちと会う場でも同じだった。貴重な質問をいただいたにもかかわらず、ウケを狙って真剣な対話の機会を逃してしまったかもしれない。さまざまな理由で話せなかった言葉が心のなかにある。もしかすると、正直でありたいという理想や強迫観念が、後悔を生んだのかもしれない。『成功したオタク』という作品にも、観客にも、もっと正直に向き合いたいと思う。