傷ついたオタクたちの代弁はできない

たった一本の映画で「ファン」という巨大な集団を代表する存在になってしまうのであれば、それは少しおかしなことだと思った。そもそも、推し活しているという共通点だけで性格がまったく異なるさまざまな分野のファンを、ひとくくりにするのはムリがあるのだ。だから、映画をつくるあいだずっと、自分に何度も誓った。決して誰かを代弁してはいけない、と。わたしは、ただのわたしだ。推し活が強制終了したすべての人を代表することも、代わりになることもできないわたし。しかし、映画が公開された後、ピンポイントで言えば、わたしに投げかけられた質問に答えはじめた瞬間から、その誓いは少しずつぐらつきはじめた。

――今もファンを続けている人たちに伝えたいことは?
――「あの人」に言いたいことはありますか?
――監督のファンになった人へのメッセージをお願いします。

ただでさえ話すのが好きなのに、「何か言いたいことは?」と繰り返し聞かれたおかげで、わたしはちょっぴり浮かれてしまった。何者かになったような、心地よい錯覚に酔いしれて、芸能人病(注目を浴びることを意識して自己陶酔することを意味する韓国の新造語)にかかったのだ。その頃から、自分の発言はもはや個人的なレベルではなくなったと思い、すごく慎重に言葉を選ぶようになった。だんだん余計なプレッシャーを感じるようになり、自分の発言はファンを代弁しているかもしれないという傲慢な考えを抱くようになった。ファンという複雑な集団をひとくくりにするのはムリで、それを代表する存在なんておかしいと思っていたのに! 自分がファンの代弁人であるかのように振舞ってしまうなんて、恥ずかしい。すべてのオタクのみなさんに、謝りたい。

推し活というジェットコースターは自分から下車できない

「傷ついたオタクたちに伝えたいことはあるか」という心の中の質問の答えを、最後に語りたいと思う。これはオタクたち、つまり「ケッティング」戦争をともにした戦友であり、コンサートで良席を狙うスタートダッシュのライバルであり、お互いを思いやる家族のような存在だった、愛に満ちた人たちに贈る言葉でもある。

推し活のスタイルやジャンルを問わず、オタクなら共感することがある。

オタク、つまりわたしたちは、「マグル(推し活をしない人のことを指す韓国語のスラング。「ハリーポッター」で魔法を使わない一般の人を「マグル」と呼ぶことが由来)」と呼ばれる人たちが一生知り得ないかもしれない体験を共有しているのだ。赤の他人だった人が自分自身よりも大切になり、好きな気持ちがどんどんふくらんで、喜びと虚無、愛と失望の間を疾走するジェットコースターに乗り、スリル満点のアトラクションに同乗した人たちと「ファン」という名でつながって友情を築く。それは人生において、めったにない経験だ。だからこそ、特別なのだ。

このかけがいのない時間をひたすら楽しく美しく過ごせればいいけれど、なかなかそうはいかない。推し活が、ジェットコースターのようにスタートラインに戻り、ピタッと静かに終わるケースは非常に珍しいからだ。「あまりにも幸せで、もう思い残すことはない」なんて言ってしまったせいだろうか。

推し活という名のジェットコースターは、自分の意思で降りられないどころか、最低限の安全装置も機能しないまま墜落してしまった。だから「芸能面に載っていた推したちのエンディングの多くは社会面」という言葉には、うなずくばかりだ。これもオタク同士だからこそ分かる、他の人は一生知らずに済むかもしれない体験と言えるだろう。こんなことで共感したくなかったのに、つらすぎる。