舞台版『お染久松』では笠置シヅ子の娘役を演じたが…

ところで、チエミがデビューを果たす直前、1951年春には、吉本興業のマネージメントでチエミは有楽町で初舞台を踏む。出し物はエノケン(榎本健一)と笠置シヅ子共演の現代版『お染久松』で、チエミは娘役だった。

映画版『お染久松』のエノケン(榎本健一)と笠置シヅ子(右)
写真=プレジデントオンライン編集部所有
映画版『お染久松』のエノケン(榎本健一)と笠置シヅ子(右)

しかし、ある朝、吉本興業東京支社の制作部長・園田秀明がチエミ宅に尋ねてきて、新聞の夕刊に批評記事が出ていると知らせた。評伝から一部引用しよう。

チエミさんは、他の劇場でさかんに笠置シズ子(原文ママ)さんの『東京ブギウギ』を歌っている。ジェスチャーをまじえて、笠置シズ子さんにそっくりと評判なのですが、昔気質の笠置さんは、自分の真似をするチビッコ歌手を痛々しいと思っていたのでしょう。作曲家の服部良一さんと相談して『東京ブギウギ』を歌わせないでほしいと申し入れたんです。
藤原佑好『江利チエミ 波乱の生涯 テネシー・ワルツが聴こえる』(五月書房)

笠置はチエミが「東京ブギウギ」を歌わないように申し入れた

ちなみに、服部良一の自伝『ぼくの音楽人生』(日本文芸社)にそのくだりが登場する。前述の評伝とは年数などが少々異なるが、一部引用しよう。

江利チエミと初めて接したのは、二十四年七月の有楽座公演のときであった。チエミは、ひばり、雪村いづみと同じ年で、当時、十二歳。ぼくが音楽を担当したエノケン・笠置の『お染久松』と、もう一本『あゝ世は夢か幻か』のほうに、エノケン・笠置の子供の役で出演し、舞台でブギを歌った。日劇のひばりのような派手な演技ではなかったためか、反響は今一つであった。
服部良一『ぼくの音楽人生』(日本文芸社)

また、服部は、チエミの父・久保益雄について「かつてはぼくと同様、劇場のボックスでピアノやクラリネットを吹いていたミュージシャンであり、母親の谷崎歳子さんは東京少女歌劇団出身の女優である」とし、益雄が「この子は、カタコトをしゃべり始めたころから、母親の腰ひもを鴨居にぶらさげましてね、カメの子だわしを結び付けて、それをマイクがわりに笠置シヅ子さんのマネばかりしていましたよ」と語ったことを記している。

ひばりが服部作曲の笠置のブギを歌わないよう通達されたのは、ハワイ・アメリカ公演でニアミスした1950年のこと。笠置に先んじてアメリカに行くことが決まったひばりが、笠置より前に笠置の曲を歌っては困るからという理由だったが、チエミが受けた通達は、より理不尽にも思われる。