ドラマ「ブギウギ」(NHK)には主人公スズ子(笠置シヅ子がモデル)の存在を脅かす若手歌手として水城アユミが登場。作曲家・服部良一の自伝などを調べたライターの田幸和歌子さんは「アユミは、笠置より23歳下の美空ひばりと江利チエミを合わせたような人物。実は笠置は美空だけでなく、江利にも『東京ブギウギ』を歌わないよう申し入れしていた」という――。
左)美空ひばり『アサヒグラフ』1953年4月29日号・右)江利チエミ『サンケイグラフ』1954年10月24日号
左)美空ひばり『アサヒグラフ』1953年4月29日号(写真=朝日新聞社/PD-old/Wikimedia Commons)右)江利チエミ『サンケイグラフ』1954年10月24日号(写真=産業経済新聞社/PD-old/Wikimedia Commons

新人歌手の水城アユミは「美空ひばり+江利チエミ」か?

ドラマ「ブギウギ」第24週では、昭和31年(1956)を舞台に、「ブギの女王」として国民的歌手になった福来スズ子(趣里)の人気に陰りが出てきた状況が描かれた。

ある日、スズ子は年末のテレビ番組「オールスター男女歌合戦」にトリとして出演することを依頼されるが、ひとつ前に話題の新人歌手・水城アユミ(吉柳咲良)を歌わせたいと言われる。実はアユミは、スズ子が大阪で所属していたUSK(梅丸少女歌劇団)のピアノ伴奏者だった股野義夫(森永悠希)と、スズ子の憧れだったが若くして亡くなった先輩・大和礼子(蒼井優)の娘だった。

アユミに「ラッパと娘」を歌わせてほしいと懇願されたスズ子は動揺し、作曲家の羽鳥(草彅剛)に相談。しかし、スズ子と同様、時代の変化を感じていた羽鳥は「君が歌ってこそ、あの歌は完成しているんだ。もっと大切にしてほしいね」といら立ちを見せる。そんな中、茨田りつ子(菊地凛子)は、以前のスズ子ならアユミと並んで歌うことにワクワクしたはずだと言い、「何逃げてんのよ」とスズ子にハッパをかける。そこでスズ子は目を覚まし、羽鳥もスズ子の思いに賛同。かくしてアユミとスズ子の新旧対決が実現するのだった。

江利チエミ、美空ひばり、雪村いづみの「三人娘」が人気に

ところで、スズ子を尊敬し、スズ子の「ラッパと娘」が大好きだと言った水城アユミとは何者なのか。モデルとなったのは美空ひばりだという説が多いが、もう一人、参考にしたと思われる人物がいる。江利チエミだ。水城アユミは、ひばりとチエミをミックスしたような名前だし、幼い頃に笠置シヅ子の曲を上手にモノマネして歌った「豆歌手」という点も共通している。さらに、資料を読み解くと、他にも水城と江利チエミの類似点が見えてくる。

ひばりと同い年だった江利チエミは、ひばり、雪村いづみとともに「三人娘」と呼ばれた歌手・女優・タレントだ。正直、今の50代以下の世代には、美空ひばりと他の二人が並べて語られていたことがピンとこないのではないか。しかし、美空ひばり自伝『美空ひばり 虹の唄』(日本図書センター)には、江利チエミと雪村いづみの名前がしばしば登場し、こんな意外な一面も打ち明けられている。

「“ひばりちゃんて、案外頭が悪いな”なんてよく仲よしのチーちゃん(江利チエミ)やトンコ(雪村いづみ)にひやかされますが、そうなんです。“芸”のことは割合よくおぼえるのですが、幼いころの記憶なんて、てんであやふやなので(以下略)」
美空ひばり『美空ひばり 虹の唄』(日本図書センター)

チエミの母は少女歌劇のスター、父親はピアノ奏者

チエミ(智恵美)は1937年1月11日に、父・久保益雄と母・谷崎歳子の三男一女の末っ子として生まれる。まずドラマのアユミと類似しているのは、父母の職業だ。

映画『猛獣使いの少女』1952年の江利チエミ
映画『猛獣使いの少女』1952年の江利チエミ(写真=大映/PD-Japan-film/Wikimedia Commons

藤原佑好による江利チエミの評伝『江利チエミ 波乱の生涯 テネシー・ワルツが聴こえる』によると、久保益雄は初代柳家三亀松のもとで三味線弾きやピアノの伴奏をした後、吉本興業の専属バンドマスターとしてピアノ演奏をしていたバンド楽士だった。

一方、母・歳子は17歳の時に東京少女歌劇団に入り、スター女優の道を駆け上がると、軽演劇の主宰と結婚・出産を経て離別。その後、吉本興業の傘下で歌と踊りと芝居によってファンを魅了した。

ピアノ伴奏をする父と女優の血を受け継ぎ、芸事に秀でた出自を持つチエミとアユミ。

しかも、母・歳子は体が弱く、高血圧に悩まされていた上、3人の男の子を出産した後は腎臓の病が加わり、医師から出産は無理と言われたものの、「今度こそ女の子かもしれない。死んでもいいから女の子を生みたい。お願い!」と気丈に言い放ち、相当な難産を経て智恵美を出産しているのも、礼子を思い出させる。

母親の歳子は舞台本番中にチエミに授乳するところを披露

ただし、礼子が産後まもなく亡くなったのに対し、歳子は産後もステージに立ち、「チエミを楽屋に寝かせて、時間がきたらオッパイをふくませる。時には、チエミを抱いたまま舞台に上がり母親がわが子にお乳を与えたり、おぶい紐で背負ってセリフを言うなどリアリティーな(原文ママ)芝居を見せることもあった」という(評伝より)。言ってみれば生まれたときから芸の世界にいたチエミが、その道に進んだのはごく自然だったのかもしれない。

象徴的なエピソードがある。それは、歳子が柳家金語楼の女房役で舞台に出ていたとき、4歳だったチエミが金語楼に「あたいもお芝居にでる」「『支那の夜』を歌うの」と目をキラキラ輝かせ、本気で言ってのけたこと。ちなみにこの舞台には、後にチエミがモノマネをすることになる笠置も出演していたという奇妙な縁もあった。

原点はアメリカのジャズ、「テネシー・ワルツ」でデビュー

チエミの音楽のルーツは、ピアノ弾きの父に連れられ、進駐軍のキャンプをまわり、アメリカのヒット曲のジャズを歌って、人気を集めたこと。そんなチエミを発掘したのが、キングレコード文芸部の和田寿三ディレクターだった。

和田はキングレコーディング・オーケストラのバンドマスターから、知り合い(益雄)の娘がジャズを歌っていて、オーディションで失敗を続けているから聴いてほしいと相談を受け、14歳だったチエミと対面。そこで後のデビュー曲となると「カモン・ナ・マイ・ハウス」(家へおいでよ)をチエミが披露し、和田はその耳の良さ、フィーリングの良さや度胸の良さに引き込まれた。

江利チエミ。1954年10月3日に都内で行われたコンサート。『サンケイグラフ』1954年10月24日号
江利チエミ。1954年10月3日に都内で行われたコンサート。『サンケイグラフ』1954年10月24日号(写真=産業経済新聞社/PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons

その後、和田は独断でチエミとの契約を進めるが、そのときに脳裏をかすめたのが美空ひばりの存在だったという。

映画でひばりを起用した斎藤寅次郎監督から、キングレコードで面倒をみたらどうかと提案された際、和田は「私は子供っていうのは苦手でしてね。ジャリで勝負はしたくないんですよ」と断ってしまっていた。ところが、その後、ひばりはコロムビアに入り、矢継ぎ早にヒットを飛ばしたことで、逃がした魚の大きさを知る和田は、アメリカ兵の前で物怖じせずジャズを歌う少女・チエミに未来を託そうと考えたのだ。

母を亡くし、15歳で父や3人の兄を養うため芸能活動を

美空ひばりと江利チエミは、同い年ということもあり、何かと比較されたが、母がなしえなかった夢をかなえるために歌手になったひばりに対し、チエミが歌手になったのは生活のため。実は和田がチエミに会ったのは、歳子が脳出血で亡くなった数日後で、当時、一家は貧乏のどん底にあり、末っ子だったチエミが父と三人の兄たちの生活を支えていたのだった。

ちなみに、デビュー曲には「十四歳の天才少女が歌う テネシー・ワルツ」というキャッチフレーズがつけられたが、チエミはこれに反発。理由は、録音時は14歳だが、発売日には15歳になっているから、「歌を聴いてくれる人に嘘になる」という真っすぐな性質を表すエピソードもよく知られている。

「テネシー・ワルツ」は40万枚を売るビッグヒットとなり、その後も「トゥー・ヤング」「ビビディ・バビディ・ブー」をはじめとした、外国語+日本語ミックスのヒット曲が次々に生まれていく。

舞台版『お染久松』では笠置シヅ子の娘役を演じたが…

ところで、チエミがデビューを果たす直前、1951年春には、吉本興業のマネージメントでチエミは有楽町で初舞台を踏む。出し物はエノケン(榎本健一)と笠置シヅ子共演の現代版『お染久松』で、チエミは娘役だった。

映画版『お染久松』のエノケン(榎本健一)と笠置シヅ子(右)
写真=プレジデントオンライン編集部所有
映画版『お染久松』のエノケン(榎本健一)と笠置シヅ子(右)

しかし、ある朝、吉本興業東京支社の制作部長・園田秀明がチエミ宅に尋ねてきて、新聞の夕刊に批評記事が出ていると知らせた。評伝から一部引用しよう。

チエミさんは、他の劇場でさかんに笠置シズ子(原文ママ)さんの『東京ブギウギ』を歌っている。ジェスチャーをまじえて、笠置シズ子さんにそっくりと評判なのですが、昔気質の笠置さんは、自分の真似をするチビッコ歌手を痛々しいと思っていたのでしょう。作曲家の服部良一さんと相談して『東京ブギウギ』を歌わせないでほしいと申し入れたんです。
藤原佑好『江利チエミ 波乱の生涯 テネシー・ワルツが聴こえる』(五月書房)

笠置はチエミが「東京ブギウギ」を歌わないように申し入れた

ちなみに、服部良一の自伝『ぼくの音楽人生』(日本文芸社)にそのくだりが登場する。前述の評伝とは年数などが少々異なるが、一部引用しよう。

江利チエミと初めて接したのは、二十四年七月の有楽座公演のときであった。チエミは、ひばり、雪村いづみと同じ年で、当時、十二歳。ぼくが音楽を担当したエノケン・笠置の『お染久松』と、もう一本『あゝ世は夢か幻か』のほうに、エノケン・笠置の子供の役で出演し、舞台でブギを歌った。日劇のひばりのような派手な演技ではなかったためか、反響は今一つであった。
服部良一『ぼくの音楽人生』(日本文芸社)

また、服部は、チエミの父・久保益雄について「かつてはぼくと同様、劇場のボックスでピアノやクラリネットを吹いていたミュージシャンであり、母親の谷崎歳子さんは東京少女歌劇団出身の女優である」とし、益雄が「この子は、カタコトをしゃべり始めたころから、母親の腰ひもを鴨居にぶらさげましてね、カメの子だわしを結び付けて、それをマイクがわりに笠置シヅ子さんのマネばかりしていましたよ」と語ったことを記している。

ひばりが服部作曲の笠置のブギを歌わないよう通達されたのは、ハワイ・アメリカ公演でニアミスした1950年のこと。笠置に先んじてアメリカに行くことが決まったひばりが、笠置より前に笠置の曲を歌っては困るからという理由だったが、チエミが受けた通達は、より理不尽にも思われる。

笠置にブギを禁じられたから「豆歌手」から脱皮でき成功した

結局、チエミは舞台を途中降板させられてしまったが、それを機に、吉本興業の園田はチエミの父・益雄と共に奮起。チエミの歌手デビューのために本腰を入れるようになる。だが、オーディションはなかなかうまくいかず、「今度こそ」と挑んだオーディションで、キングレコードの和田に見いだされることになったのだ。

結果的に、ひばりもチエミも、笠置の歌を歌うことを笠置&服部に禁じられたことにより、自身の道を突き進み、ブレイクした。その経緯は同じだ。また、ひばりは服部とは力道山のとりなしにより和解したが、チエミは銀座のナイトクラブ「銀馬車」の昼間のダンスパーティーで服部と再会。チエミが「東京ブギ」や「ヘイヘイブギー」を歌うのを聴いた服部が、自伝で次のように評価している。

なるほど、有楽座のときとはちがって、ビートがあり、子供の声から脱して巧みなフィーリングを身につけていた。チエミは小学校の六年生のころから進駐軍のキャンプ回りをしている。キングと契約の話もあるが。ぜひチエミのために新しい曲を書いてくれと頼まれた。さいわい、それから間もなくキングで吹き込んだ『テネシー・ワルツ』が大ヒットした。(中略)その後、アメリカへ行き、帰国したチエミはジャズ・フィーリングに格段の進歩をみせ、ことに黒人唱法を身につけて他の追随を許さない実力を示すようになった。
服部良一『ぼくの音楽人生』(日本文芸社)

いつまでも、ものまねのような歌唱では、独自の世界は切り開けない。笠置の楽曲使用禁止は、自分の立場を守ると同時に、娘ほどに若い後輩女性歌手たちへのエールでもあったのかもしれない。

「笠置シヅ子の世界 ~東京ブギウギ~『ヘイヘイブギー』」℗ Nippon Columbia Co., Ltd./NIPPONOPHONE