青森の実家が没落し、ヌードモデルをして妹の治療費を稼いだ
1999年に92歳で亡くなるまで、ブルースやシャンソンを歌い続け、テレビでも歯に衣着せぬ発言で人気者となり、多くの後輩歌手から慕われた淡谷のり子。ドラマ「ブギウギ」(NHK)では茨田りつ子として登場し、演じる菊地凛子のツンツンした物言いが、生前の淡谷を知る人には再現度高いとして評判になっているが、そもそも淡谷のり子とは、どんな人物だったのか。
淡谷は明治40年(1907)、青森の大きな呉服商の娘として生まれたが、3歳の時の大火で実家が全焼。父は再建を目指したが、女道楽により没落。そんな父に愛想を尽かした母と妹と3人で、大正12年(1923)に上京するが、米も買えない困窮ぶりだったために、栄養失調で失明の危機に瀕した妹の治療費を稼ぐため、「霧島のぶ子」と名乗り、美術学校のヌードモデルを始める。
また、東洋音楽学校(現・東京音楽大学)を首席で卒業したが、家族の生活費を稼ぐため、夢だったクラシック歌手の道を諦め、流行歌手の道に進んだ。軍歌を歌わず、戦時中には代表曲「別れのブルース」が発売禁止となるが、戦地慰問ではリクエストに応えて堂々と歌いあげた。その際、監視に付いた将校がわざと所用を思い出したふりで退席することで「黙認」し、廊下で涙していたドラマでの名場面も、史実通りだ。
未婚の母で娘がひとりいたのはドラマのとおり
ドラマでは、りつ子が、笠置シヅ子をモデルとしたスズ子(趣里)に、自分も子どもを産んでいると告白したが、実際に淡谷はピアニストと24歳の時に結婚するも、3年で離婚。その後、妊娠するが、相手はそのピアニストではない。子どもの父親は中国で戦死したことにより、32歳で女児を出産。笠置と同じく未婚の母となっている。
恋多き女ではあったものの、家庭には入らず、「女性歌手は結婚するとダメになることが多い。命がけで歌に取り組むには犠牲にしなければならないことがある」と、歌に専心していたという(「スポーツ報知」1999年9月26日「淡谷のり子さん死去 20世紀を歌ったブルースの女王」)。