笠置シヅ子は、吉本興業の創業者である吉本せいの息子・頴右と婚約するが、頴右の急死により、未婚の母に。ノンフィクション作家の砂古口早苗さんは「娘を出産する前に頴右が死んでしまったため、認知ができなくなったが、笠置は戸籍にこだわらない道を選択した。そこには笠置の潔さと自立した女性の矜持が感じられる」という――。

※本稿は、砂古口早苗『ブギの女王・笠置シヅ子』(現代書館)の一部を再編集したものです。

最愛の男性の死に目に会えず、笠置は悲嘆に暮れる

「安心して赤ちゃんを産んでください。必ず自分の子として届けます」という手紙を笠置のもとに送ったにもかかわらず、吉本頴右えいすけは西宮市の実家で息を引き取った。笠置は自分が養母・亀井うめの死に目に会えなかったことを重ね合わせ、生涯で最も忘れられない人の臨終にも立ち会えなかったことを嘆き悲しんだ。

笠置シヅ子
笠置シヅ子(写真=朝日新聞社『アサヒグラフ』1950年1月18日号/PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons

笠置は桜井病院の院長とマネジャーの山内から頴右の死を聞いたとき、全身がブルブルとふるえて、お腹の子までが息を止まらせないかと思うばかりだった。とめどなく涙が湧いて、夜明けまで眠れなかった。頴右がラッパを吹いて、自分が歌っている夢を見た。あれは帝劇だろうか、浅草国際劇場だろうか……と、夢うつつの狭間でうなされる。ようやくうとうとしたと思ったら桜井院長の声に夢からさめたと、1947年5月23日の日記に記す。

25日には吉本家から使者の前田栄一(当時の吉本興業営業部長)が産院に来て、「男の子やったら頴造、女の子やったらヱイ子と名づけるのがご遺言だす」と笠置に伝える。前田は吉本せいに仕えた金庫番のような人物で、“がま口さん”と呼ばれていた。笠置は前田から3万円の入った預金通帳と印鑑を渡される。頴右が笠置と生まれてくる子どものために遺したものだ。

「なぜわが子をひと目でも見て行かれなかったのだろう」

同時に、笠置が吉本家からもらった“最初で最後の金”であり、笠置はそれを手に泣いた。これから生まれる子どもを頴右は「なぜひと目でも見て行かれなかったのだろう。神も仏もないと、私はすすり泣きながら天を怨んだ」と日記に書いている。

5月28日、笠置は初めての出産なのに付き添ってくれる身寄りが一人もいないので心細く、頴右の浴衣と丹前が荷物の中にあるのを思い出し、それを産院の壁につるしてもらうと、いくぶん気丈夫になった。6月1日、笠置は陣痛に襲われると、壁から頴右の浴衣を外してもらい、それをグッと抱きしめた。とたんに彼の移り香が身体をつつみ、決してひとりぼっちでお産をするような気がしなかった。こうして愛する人の浴衣を抱きしめ、笠置は明け方に女児を生んだ。