ドラマ「ブギウギ」(NHK)では歌手の先輩であるりつ子(淡谷のり子がモデル)がスズ子(笠置シヅ子)を認めていた様が描かれた。淡谷のり子について調べたライターの田幸和歌子さんは「淡谷はテレビで毒舌審査員としても人気になったが、最後まで歌手としてのプライドを持ち続け、自分が認めた人には優しかった」という――。
写真左=淡谷のり子、1930年代/写真右=笠置シヅ子
写真左=淡谷のり子、1930年代(写真=PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons)/写真右=笠置シヅ子(写真=朝日新聞社『アサヒグラフ』1950年1月18日号/PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons

青森の実家が没落し、ヌードモデルをして妹の治療費を稼いだ

1999年に92歳で亡くなるまで、ブルースやシャンソンを歌い続け、テレビでも歯に衣着せぬ発言で人気者となり、多くの後輩歌手から慕われた淡谷のり子。ドラマ「ブギウギ」(NHK)では茨田りつ子として登場し、演じる菊地凛子のツンツンした物言いが、生前の淡谷を知る人には再現度高いとして評判になっているが、そもそも淡谷のり子とは、どんな人物だったのか。

淡谷は明治40年(1907)、青森の大きな呉服商の娘として生まれたが、3歳の時の大火で実家が全焼。父は再建を目指したが、女道楽により没落。そんな父に愛想を尽かした母と妹と3人で、大正12年(1923)に上京するが、米も買えない困窮ぶりだったために、栄養失調で失明の危機に瀕した妹の治療費を稼ぐため、「霧島のぶ子」と名乗り、美術学校のヌードモデルを始める。

また、東洋音楽学校(現・東京音楽大学)を首席で卒業したが、家族の生活費を稼ぐため、夢だったクラシック歌手の道を諦め、流行歌手の道に進んだ。軍歌を歌わず、戦時中には代表曲「別れのブルース」が発売禁止となるが、戦地慰問ではリクエストに応えて堂々と歌いあげた。その際、監視に付いた将校がわざと所用を思い出したふりで退席することで「黙認」し、廊下で涙していたドラマでの名場面も、史実通りだ。

未婚の母で娘がひとりいたのはドラマのとおり

ドラマでは、りつ子が、笠置シヅ子をモデルとしたスズ子(趣里)に、自分も子どもを産んでいると告白したが、実際に淡谷はピアニストと24歳の時に結婚するも、3年で離婚。その後、妊娠するが、相手はそのピアニストではない。子どもの父親は中国で戦死したことにより、32歳で女児を出産。笠置と同じく未婚の母となっている。

恋多き女ではあったものの、家庭には入らず、「女性歌手は結婚するとダメになることが多い。命がけで歌に取り組むには犠牲にしなければならないことがある」と、歌に専心していたという(「スポーツ報知」1999年9月26日「淡谷のり子さん死去 20世紀を歌ったブルースの女王」)。

淡谷は歌に命懸けで取り組み、結婚も子育ても犠牲にした

ライバルとも見られていた笠置と淡谷は、何かと好対照だった。

大阪の銭湯の養女だった笠置と、青森の豪商の娘だった淡谷。少女歌劇出身の笠置と、音楽学校首席卒業の音楽エリートでクラシック出身の淡谷。年齢は淡谷が7歳上だが、同時期に活躍し、笠置が「スヰングの女王」「ブギの女王」と呼ばれる一方、淡谷は「ブルースの女王」と呼ばれた。

服部良一の自伝『ぼくの音楽人生』(日本文芸社)の中では、淡谷が「ブルースの女王」と呼ばれるようになった当時のことが次のように記されている。

「ただし、地方公演などでは、ブルースという意味がよくわからず、駅前や劇場の立て看板にデカデカと、『ズロースの女王、淡谷のり子来る!』と書かれることが再三で、『全く、スッレイ(失礼)しちゃうわ』と、その土産話をするたびに微苦笑していた」

ちなみに、同書によると、服部作曲の「別れのブルース」は当初「本牧ブルース」というタイトルで作られたが、本牧に全国的知名度がないことなどから、営業サイドに難色を示され、改題したという。

笠置も歌唱へのこだわりを貫く淡谷をリスペクトしていた

また、レコーディング当日に、「私はソプラノよ。こんな低い音、アルトでも無理じゃない。歌のはじめが下のGなんて無理よ」と、“おかんむり”だった淡谷と少し揉めた上で、服部が「ブルースはソプラノもアルトもないんだ。魂の声なんだ。マイクにぐっと近づいて、無理でもこの音域で歌ってもらいたい」と説得。かくしてあの名曲が誕生したのだった。

「ブギウギ」の第21週でも描かれた雑誌での対談で、笠置シヅ子は淡谷のブルースを絶賛している。淡谷のように、難しい曲をなんでもないように歌うのは、たいていの人ができないとして、こう語る。

笠置「この間も淡谷さんの『雨のブルース』聴きました。(中略)専門家でもその人たちの年齢の差異、経験の差異で(歌唱力は)違うでしょうけれど、なかなかわからないのですよ。この間も淡谷さんの録音を――、『果しなき情熱』の(編集部註:映画の中の淡谷の歌唱シーンと思われる)聴いたのです。それはもう違うのですよ。一言――半言ていうか、愛情のこもった歌、とにかく歯が立たぬということ」
(『婦人公論』1949年11月号)
「淡谷のり子の世界 〜雨のブルース〜」 ℗ Nippon Columbia Co., Ltd./NIPPONOPHONE

後年の淡谷はモノマネ番組の毒舌審査員として有名に

ドラマではスズ子の化粧をいじるなど、毒舌イメージの強いりつ子だが、淡谷自身、晩年はモノマネ番組で見せた「毒舌」審査員の姿と「御意見番」的なイメージが強い。

こんな淡谷語録も語り継がれている。

「今どきの若い歌い手は歌手ではなく、歌屋でしかない」
(1971年、橋幸夫らを名指しで批判)

「私、ベチョベチョしてんの嫌い。演歌撲滅運動の会長になりたいのね。着てもらえぬセーターなら編まなきゃいいでしょ」
(1980年12月、コンサートでゲストの美輪明宏との対談にて)

「日本人は音楽がなくても生きていける民族性を持っているのね。レコード会社も歌手を使い捨てね。だから楽譜も読めず音声訓練もせず、音程さえいいかげんな幼稚なジャリタレが続々でてくるのね。あれは歌手でなくカスね。粗大ゴミよ。クラシック歌手のようにきちんと勉強し基礎訓練しなきゃあね。松田聖子、光GENJI……話にならないわ。まあ、岩崎宏美は上手だった」
(「東京夕刊」1990年3月2日)

85歳で新曲を発表し公演もこなし、生涯歌手であり続けた

また、淡谷が「ケンちゃん」と呼び、親しくしていた美川憲一は「スポーツ報知」(2014年6月14日)で、二人の出会いについて語っている。

それは、「柳ケ瀬ブルース」(1966年)が出たときの「ブルースの女王とブルースの新人歌手」という対談でのことだ。

「私、不思議なくらい物おじしないタイプだから。最初に会ったとき『こわいな、この化粧』と思って、ジーッと見てたの。そしたら、淡谷さんもこっち見ながら『かわいい顔してるじゃない。私の顔こわい?』って。正直に『はい』って言ったの。そしたら『これはね、化粧でこわくしてるのよ。本当は目は優しいの』って。『今度その目、見たいです』なんて言っちゃって。大先輩に向かってそんなこと言う人いなかったと思うの。『あんた、おもしろい子ね。無口な割に言うことは言うのね』。これがきっかけで、ずっとかわいがってもらったの」

なんと1993年には85歳で最新CD「揺り椅子」を発売している。

淡谷のり子、1981年12月1日
写真=時事通信フォト
淡谷のり子、1981年12月1日

当時の記事「超ベテラン歌手淡谷のり子/衰えぬ美声『揺り椅子』発売 ボケるからいつまでも歌を」(「河北新報」1993年6月23日)には、足こそやや不自由になったが、月5回程度のステージをこなしていることが明かされ、CDディスクのことを最近までクリスチャン・ディオールの略だと思っていたという驚き発言をしたかと思えば、最近の歌手について相変わらずのこんな毒舌を披露していた。

美川憲一や清水アキラ、心を許した人には優しかった

「みんな同じ歌に聞こえるのよね。個性がないし、下手だし。聞いてて胸が悪くなってきて、食欲がなくなるんです。あんなんじゃない方がいいですよ。才能のある歌手や作家がいなくなったのかしら。だったとしたら戦争の後遺症ね」

「下手な人とは歌いたくないの。歌手でないカスと演歌は大嫌い。譜面も読めず、口移しで歌を覚えるなんて信じられません」
(「河北新報」1993年6月23日)

ちなみに、ドラマではスズ子を「下品」と言ったりつ子だが、淡谷が「下品」と顔をしかめ続けていた”天敵“のような人物と言えば、多くの人が思い浮かべるのがモノマネ芸人の清水アキラだろう。

「スポーツニッポン」(1999年9月26日)の「モノマネ番組で淡谷のり子さんと共演 清水アキラも涙」という記事では、清水が淡谷の誕生日に毎年花束を贈り、直筆のお礼状をもらっていたことが明かされている。清水は下品なネタの中にも上品さが必要だと淡谷に教えられたと言い、感謝を述べていた。

笠置とは正反対に恵まれた家に生まれつつも、没落により苦労を経験した淡谷のり子。しかし、クラシック出身のプライドと歌への情熱を持ち、たゆまぬ努力を続けた。そして、「毒舌」ぶりと「上品さ」と深い愛情をあわせ持っていた、生涯ブレない歌手だった。