淡谷は歌に命懸けで取り組み、結婚も子育ても犠牲にした

ライバルとも見られていた笠置と淡谷は、何かと好対照だった。

大阪の銭湯の養女だった笠置と、青森の豪商の娘だった淡谷。少女歌劇出身の笠置と、音楽学校首席卒業の音楽エリートでクラシック出身の淡谷。年齢は淡谷が7歳上だが、同時期に活躍し、笠置が「スヰングの女王」「ブギの女王」と呼ばれる一方、淡谷は「ブルースの女王」と呼ばれた。

服部良一の自伝『ぼくの音楽人生』(日本文芸社)の中では、淡谷が「ブルースの女王」と呼ばれるようになった当時のことが次のように記されている。

「ただし、地方公演などでは、ブルースという意味がよくわからず、駅前や劇場の立て看板にデカデカと、『ズロースの女王、淡谷のり子来る!』と書かれることが再三で、『全く、スッレイ(失礼)しちゃうわ』と、その土産話をするたびに微苦笑していた」

ちなみに、同書によると、服部作曲の「別れのブルース」は当初「本牧ブルース」というタイトルで作られたが、本牧に全国的知名度がないことなどから、営業サイドに難色を示され、改題したという。

笠置も歌唱へのこだわりを貫く淡谷をリスペクトしていた

また、レコーディング当日に、「私はソプラノよ。こんな低い音、アルトでも無理じゃない。歌のはじめが下のGなんて無理よ」と、“おかんむり”だった淡谷と少し揉めた上で、服部が「ブルースはソプラノもアルトもないんだ。魂の声なんだ。マイクにぐっと近づいて、無理でもこの音域で歌ってもらいたい」と説得。かくしてあの名曲が誕生したのだった。

「ブギウギ」の第21週でも描かれた雑誌での対談で、笠置シヅ子は淡谷のブルースを絶賛している。淡谷のように、難しい曲をなんでもないように歌うのは、たいていの人ができないとして、こう語る。

笠置「この間も淡谷さんの『雨のブルース』聴きました。(中略)専門家でもその人たちの年齢の差異、経験の差異で(歌唱力は)違うでしょうけれど、なかなかわからないのですよ。この間も淡谷さんの録音を――、『果しなき情熱』の(編集部註:映画の中の淡谷の歌唱シーンと思われる)聴いたのです。それはもう違うのですよ。一言――半言ていうか、愛情のこもった歌、とにかく歯が立たぬということ」
(『婦人公論』1949年11月号)
「淡谷のり子の世界 〜雨のブルース〜」 ℗ Nippon Columbia Co., Ltd./NIPPONOPHONE