戦時中に自動車製造が奨励され、勢いに乗った

トヨタ自動車初代社長・豊田利三郎
トヨタ自動車初代社長・豊田利三郎(写真=トヨタ企業サイト「トヨタ自動車75年史」より/PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons

一方、日本政府は満州事変勃発後、戦地でのトラックの活躍に目を見張り、自動車産業の育成を企図。喜一郎は自動車製造をアピールし、1936年に自動車製造事業許可会社の指定を受けることに成功。翌1937年に豊田自動織機製作所自動車部を分離し、トヨタ自動車工業を創立した。初代社長には豊田利三郎が就き、1941年に豊田喜一郎に社長を譲った。

豊田利三郎というのは、喜一郎の妹・愛子の夫で、実兄は三井物産名古屋支店長・児玉一造こだまいちぞう。三井物産が名古屋支店長の児玉に、豊田佐吉の支援を指示。その縁で、娘婿に選ばれたという。佐吉も喜一郎もバリバリの技術者なので、初期のトヨタグループの経営は婿養子の利三郎が担っていた。実は利三郎は喜一郎の自動車製造に反対していたが、妻の愛子が喜一郎の自動車製造にかける熱意を認めるように説得したという。

【図表】トヨタ自動車歴代社長
筆者作成

戦後のデフレ期には倒産の危機を迎え製販分離した

戦後のデフレ政策でトヨタ自動車工業は資金調達に行き詰まり、倒産の危機に瀕した。

東海銀行(現・三菱UFJ銀行)や帝国銀行(のちの三井銀行、現・三井住友銀行)など24行による協調融資でトヨタの危機を救ったが、この融資と引き換えに抜本的な再建策の実施に迫られた。過剰な人員の整理、販売会社の分離、販売会社が販売可能な台数に生産調整することの3つであった。

トヨタ自動車工業は1950年に販売部門を分離し、トヨタ自動車販売を設立。人員整理の責任を取って豊田喜一郎は引責辞任した。

豊田自動織機製作所社長の石田退三がトヨタ自動車工業社長を兼務したが、それから1カ月も経たないうちに朝鮮戦争が勃発。トヨタ自動車工業にトラックの注文が大量に舞い込み、業績は上昇。おびただしい在庫、累積赤字を一掃して苦境を乗り切った。

1952年3月、石田退三は喜一郎を訪ね、社長復帰を促した。喜一郎もこれを快諾したが、同年3月27日、食事に立ち寄った先で倒れ、急死してしまう。喜一郎の長男・豊田章一郎はまだ27歳。従兄弟の豊田英二も39歳と若く、跡取りがまだ育っていなかった。

そのため、石田は豊田自動織機製作所の社長を兼務したまま、トヨタ自動車工業社長の続投。1961年に石田は元三井銀行神戸支店長・中川不器夫ふきおに社長を譲ったが、1967年に中川が急死すると、喜一郎の従兄弟であった豊田英二を社長に抜擢した。