10人を超える子に恵まれたことが道長の天下をもたらした

関幸彦『藤原道長と紫式部』(朝日新書)
関幸彦『藤原道長と紫式部』(朝日新書)

以上の四人の男子に続いて、女子では敦明親王(小一条院)の妃となった寛子である。彼女は19歳のおり、父道長との関係で東宮を退位した敦明親王の妻となるが、27歳の若さで死去した。『栄花物語』〈みねの月〉には小一条院のかつての女御だった延子の死霊が、寛子に取りき亡くなったとの話を載せている。

最後は源師房もろふさの室に入った尊子だ。彼女は18歳のおりに、頼通の猶子ゆうし(養子)となった師房と結婚する。道長の娘たちは、多くが皇妃の立場だったのに比べ、例外であった。院政期に賢臣として活躍する俊房・顕房らは、その尊子を母とした。

以上、道長の二人の夫人たちの来歴を略記した。倫子系にあっては男子2人、女子4人、そして明子系は男子4人、女子2人。ともども6人ずつの、12人の子女たちに恵まれていたことになる。

関 幸彦(せき・ゆきひこ)
歴史学者

1952年生まれ。歴史学者。学習院大学大学院人文科学研究科史学専攻博士課程修了。学習院大学助手、文部省初等中等教育局教科書調査官、鶴見大学文学部教授を経て、2008年に日本大学文理学部史学科教授就任。23年3月に退任。専攻は日本中世史。著書に『敗者たちの中世争乱』『刀伊の入寇』『奥羽武士団』『武家か天皇か』など。