ファンクラブの女性たちを自宅に招き、入院のお見舞いにも
笠置のファンクラブには会長の南原繁や石川達三、吉川英治、田村泰次郎、獅子文六、林芙美子、梅原龍三郎、猪熊弦一郎、岩田専太郎、田中絹代、山田五十鈴などの著名人もいたが、その大半は有楽町界隈の“ナイト・エンジェル”たちで支えられていた。熱心なファンである彼女たちとの交流を続け、娘ヱイ子の誕生パーティーなどに彼女たちを自宅へ招いたこともある。笠置が「東京ブギウギ」でスターになってから10年後の57年、週刊誌で大宅壮一との対談でこう語っている。
笠置「まだつき合いしてます。誕生日には、あねご連中がちゃんときます。大阪のあねごが一人、胸が少し悪くて、徹底的に治すというので東京中野の国立病院に入っています。先だってお見舞いにも行って来ました。いろんなことでずっとつき合いしています。私はどういうものか、性分なんでしょうね、おとといも、出たことがないのに何回もいわれて即興劇に出た。野口英世の母をやって、しろうとの人が息子になる。ところがしているとパッと涙が出てくる。全然だめなんですよ。昔から映画を見ていても、芝居を見ていても、子役が出てきたら、ものいわん先に泣きまんね。なんてだらしがないと思うけど、セリフがいえない。」(『娯楽よみうり』1957年7月12日号)
日本女性の純潔を守るための防波堤にされた街娼たち
後年、笠置は胸を患った“ラクチョウのお米さん”が肺結核で危篤と知って駆けつけ、「なんでもっとはよう知らせてくれなんだんや」と言って、すでに臨終で口がきけなくなっていた彼女の枕元で涙を流した。
笠置が言うように、自分の芸を理解してくれて喜んでくれることが笠置の生きがいであり、また彼女たちにとっても、笠置シヅ子の熱狂的なファンであり続けることが生きがいだったのだ。この時代だったからこそありえた、スターとファンの関係の最も王道で、古典的な例なのか。
敗戦後の混乱期に有楽町や上野、新宿などに現れ、生きるために身を売る個人街娼の“夜の女”たちの数は、52年の進駐軍撤退とともに激減した。その後は結婚して家庭を持ったり職業を得て更生した者もなくはないが、健康を害して病死した者が少なくなかったといわれる。彼女たちは遊郭や赤線、風俗店など、いわば管理売春組織の売春婦と区別されてはいたが、いずれにしても敗戦後の一時期、当局(日本政府であれGHQであれ)の手で“純潔の日本女性を守るための防波堤”にされた女性たちだった。
1949年、香川県生まれ。新聞や雑誌にルポやエッセイを寄稿。明治・大正期のジャーナリスト、宮武外骨の研究者でもある。著書に『外骨みたいに生きてみたい 反骨にして楽天なり』(現代書館)など