昭和の大スターである笠置シヅ子だが、家族思いで世話焼きな女性だった。著述家の柏耕一さんは「笠置は大阪で養母うめに大切にされて育ったが、うめが死ぬまで、生母ではないということを知らないふりをした。こうと決めたら揺らがない一本気な性格だから、それができたのではないか」という――。

※本稿は、柏耕一『笠置シヅ子 信念の人生』(河出書房新社)の一部を再編集したものです。

大阪松竹座にて、松竹楽劇部(後のOSK)による「春のおどり」フィナーレ
大阪松竹座にて、松竹楽劇部(後のOSK)による「春のおどり」フィナーレ(写真=『松竹百年史』1932年より/PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons

14歳で松竹少女歌劇団に入り「豆ちゃん」と呼ばれる

数え14歳で大阪の松竹少女歌劇団に入り、背の低い笠置は「豆ちゃん、豆ちゃん」と呼ばれた。

笠置自身の解説では、「私は大体元来が世話焼きでして、また身体が小さくてちょこちょこ動き回るものですから、大阪の花柳界にちいさいまげをひっつめて木綿の着物をきて芸者衆やかみさんなんかの用事をする豆奴まめちゃんというものがありますがそこからきたのでしょう」(自伝より)

となる。だが万事、完璧にやろうとすれば、体も心も悲鳴をあげてくる。

真冬に洗い物をしているときなど笠置は、松竹楽劇部を何度やめようと思ったか、と回顧している。実際、彼女の指の節が高くなっているのは、このときの苦労である。

笠置は気働きに長け、誰からも重宝がられた。いいか悪いかわからないが、新人が入ってきても、幹部たちは「豆ちゃんでなければダメ」という始末だった。

笠置は、この部屋子をとうとう5年間務めた。それもこれも、笠置にいわせると理由があった。つまり、歌劇団へ入団テストを受けてまっとうな入り方をしたわけではないので、人一倍辛抱しなければならない、と自分にいい聞かせたのだ。

先輩たちにかわいがられ、やっかみの声も気にしなかった

笠置のこの根性は、以降、松竹楽劇部内部でいかんなく発揮されていく。いまの時代は違うが、当時は保守的で、新人が舞台で役らしい役をもらえるようになるには、時間も忍耐も必要とされていた。実力があるだけではダメなのである。

笠置は考えた。まず、先輩にかわいがられること。つぎに、休演者が出たときすぐ代役がつとまるよう、舞台そでで目を皿のようにして全部の役柄を覚えるようにした。

もちろん、楽屋の雑用も人を押しのけてまでこなすようにした。その結果、休演者が出れば、先輩たちが文芸部にかけあって、笠置を推薦してくれたのである。こうなると、同期などから「やっかみ」を買うこととなる。さかんに陰口をいう者もいた。しかし笠置は、いっさい気にしなかった。

それもこれも、自分を入団させてくれた松竹の音楽部長・松本四郎への恩義に報いるためであり、父母にも申し訳を立てたいからだった。

笠置本人の語るところでは、同期生が廊下ですれ違って挨拶あいさつしてきても、これを無視することがあった。筆者の考えるところ、これは笠置の意地悪な気分がすることではなく、同期生や後輩など、まるで眼中になかったのである。とにかく早く一人前になること、それが先決だった。