上杉軍が先に戦い始め、佐竹義宣も焦って敵陣へ
彼らはどうやら景勝と義宣を仲間割れさせてやろうと意地悪をしているらしい。
憲忠は佐竹陣に戻って全てを報告した。
焦った義宣は、「家老の渋江政光に戦闘を開始するよう伝え、憲忠自身も政光に続け!」と命じた。憲忠は渋江のもとへ駆け出す。
政光は小橋の上にいた。部隊の列を整えているところだった。
憲忠は政光に「義宣様より戦闘開始の命令です!」と伝えると、そのまま単騎で敵地へ走り出した。
すると政光の指揮下にあった憲忠の兵もこれに続いたので、「憲忠殿。勝手な事をすると我が隊が乱れる。これでは統制も取れない」と制止した。
憲忠は「ごもっとも。しかし鑓持ち一人ぐらいならいいのでは」と答え、単独行動を許された。政光は600〜700の兵を連れて作戦行動に入った。
豊臣軍に奇襲を仕掛けた佐竹軍の大勝利
渋江隊は堤の影から敵陣へと忍び寄り、奇襲を仕掛けた。
いきなりの遠隔攻撃に興奮した豊臣兵は、柵の中で斬り込み隊を編成して、迎撃に突進させた。
渋江隊からも鑓隊が応戦する。
憲忠はそこへ太刀を手にして分け入り、血みどろになりながら奮闘した。勢いを得た渋江隊は第一の柵を破り、そして第二、第三の柵も破った。
ちなみにこのとき、佐竹の勢いに乗じて、先の三使、安藤・伊東・屋代も戦闘に加わり、武功を争っていた。
犠牲を厭わない佐竹軍の猛攻に驚いた豊臣諸隊は撤退を開始する。その背中を佐竹の兵が襲いかかる。
佐竹軍は四つ目の柵も奪い取った。豊臣兵は片原町に逃げ込むが、仮橋を外す余裕がなく、佐竹軍が殺到する。豊臣兵は防戦するが、優劣はすでに明白だった。
その頃、義宣自身も前線の指揮を執っていたが、戦況が落ち着いてきたので、敵将の首実験を行うことにした。
そこに今福の指揮を執っていた矢野正倫の首があった。
全ての柵は我が手にある。
義宣は満足して、防御陣を固めるべく、配下たちに普請を命じた。
奪ったばかりの今福村と蒲生村に、三段構えの付城が着々と構築されていく。戦闘態勢はすでに解いていた。
ところがまだ戦闘は終わりではないとばかりに、まばらな軍勢が迫ってきた。豊臣軍の若武者・木村重成が反攻に現れたのだ。
さらには未刻(午後2時から4時)、歴戦の勇将・後藤基次まで馳せ参じ、片原町の渋江隊に迫ってきた。その数およそ「三千」。佐竹軍に倍する人数だった。