関ヶ原合戦において石田三成は本当に打倒家康軍の首謀者だったのか。歴史家の乃至政彦さんは「石田三成は、戦後に捕縛されて処刑された。そのときの逸話は多く伝わっているが、事実と考えられるものは少ない。ただ、勇将で知られる徳川四天王の本多忠勝は、三成の前で手を突き、その不運を嘆いた」という――。

※本稿は、乃至政彦『戦国大変』(日本ビジネスプレス発行/ワニブックス発売)の一部を再編集したものです。

絹本著色 石田三成像〈模本〉
絹本著色 石田三成像〈模本〉(写真=東京大学史料編纂所蔵/宇治主水/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

三成と家康は不仲ではなく、戦いを避けようとしていた

石田三成と徳川家康は不仲であったと言われている。

そうした印象に基づいて両者の動きを見ていくと、関ヶ原合戦は、三成の主家への忠心と、老獪ろうかいな家康の野心がぶつかったもののように見えてくる。

しかし、同時代の史料を見る限り、ふたりの間にそれほど深刻な対立は感じられない。それどころか、どちらも豊臣公儀(公的政権)の維持のために尽力しており、時に相互協力をも惜しまなかった様子があるようだ。

もちろん過去には、三成は家康に面と向かって非難することもあった。例えば、慶長4年(1599)正月、「家康が亡き太閤・秀吉の遺言に背いて身勝手な婚姻を進めている」ということで、毛利輝元を筆頭に四大老・五奉行らが家康を糾弾する事件が起きた。これに同調する三成の舌鋒ぜっぽうは鋭かった。

「〔あなた=徳川家康は〕国家の統治にあたってひどく権力を我がものにしており、また天下の支配権を獲得する魂胆の明白な兆候を示している」と難詰したのである。

これは三成個人の憎悪が原因ではなく、四大老と奉行の総意として動いたものだった。その証拠に、家康の潔白が認められてからは三成も反省したらしい。家康およびその直臣たちも三成個人を恨んではいないようだった。

三成が引退に追い込まれたときも家康は人質を送った

同年閏3月、三成が豊臣大名らの訴訟騒動に追い込まれたとき、徳川家康が厳しい顔でこれに介入した。そして三成を居城の佐和山城へ蟄居ちっきょさせ、奉行職を引退させた。しかも家康は、訴訟側の大名に三成の「子息」を人質に取ったと誇らしげな手紙を書き送っている。これをふたりの権力闘争の結果と評価するのが一般的だが、よく見るとそうではないらしい。

なぜなら家康も、「家康子人質」として自分の息子を佐和山城の三成のもとへ送っているのである。

おそらく家康は訴訟大名たちの怒りが収まらないので、自分が三成を圧迫してやったというポーズを取りつつ、三成の気持ちにも同情して、こっそりこのような対応を行ない、双方の気持ちを宥めようとしたのだろう。