老いだって自然の摂理

年齢を重ねるにつれ、今までは難なくできていたことが、できにくくなることを、実感しています。目がかすんで、見えづらくなる。小さな声が聞き取りづらくなる。スマホをどこに置いたのか、行方がわからなくなる。疲れやすいなど。

心配性の僕は、約束を忘れるということはありませんが、スケジュールを眺めていて、「あっ、この打ち合わせは明日だったのか!」なんて、ハッとすることはたまにあります。

歳をとることで、あちこちに不具合が出てきます。けれども、それは何もかも当然であり、自然の摂理ではないかと思うのです。

ひとつぶの種から芽が出て、葉を広げ、茎をのばし、花が咲いたら枯れるのと同じこと。それに逆らおうとは、思いません。自動車だって、何年も走れば、それなりに壊れるところも出てくるのが自然で、修理をしながら、いたわりながら走らせなければいけません。

枯れたバラ
写真=iStock.com/PhotoCPL
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老いは不幸なことではない

僕は、老いを不幸なことだとは思いません。

高齢になるにつれ、手がふるえるとか、膝が痛くなるとか、体力が無くなるとか、そんな不具合は増えることでしょう。

こんなはずではなかったと嘆くひとも多いと思います。

でも、そんなのは当然のこと。ありのままを受け入れて、「それはあたりまえ」と思っておけば、べつに悲しくもないし、悲しむ必要もないと思うのです。

もともと、ひとは、誰しもが傷つきやすく、弱い存在です。生き物ですから当然なのです。自動車だって七〇年もてば、それなりに不具合はある。

それを忘れないようにしておけば、自分にも優しくなれるのではないでしょうか。

みんな、平等に年齢を重ねるのだから、自分だけが老いていき、つらいのではありません。

平等なものであるのなら、老いに悩むことなく、自分のできる範囲で人生を存分に楽しみたい。自分の殻に閉じこもるのではなく、いろんなひとと会って、話したり、本を読んだり、たくさんの経験を重ねていきたい。

そういう日々の中で、なるほど、という気づきに感謝して、前向きに生きていきたい。会うひとがみんな、自分にとって「何か」を教えてくれる先生である。そう思って僕は日々を生きるようにしています。

子どもでも、僕より年下のひとでも、誰でも、僕に「何か」を教えてくれる先生なのです。直接、「これはこうだよ」って諭してくれることはなくても、行動や言葉、ちょっとした所作や考えで、僕に何かを学ばせてくれているのです。

そんなふうに考えて毎日を過ごしていると、明日が楽しみになり、老いに対する恐怖を感じている場合ではなくなってくるのです。