※本稿は、松浦弥太郎『眠れないあなたに おだやかな心をつくる処方箋』(小学館)の一部を再編集したものです。
死はわからないから怖い
昨年、メンターとして慕っていた方が亡くなったとき、僕はうつろな日々をしばらく送っていました。
尊敬するひとが、亡くなってしまうことは、あまりにも切なく、寂しいものです。
いっぽうで、自分にとって「死」というものについての考え方は、おそらくひとよりもシンプルだと思っています。
「死ぬって怖い」「死にたくない」
そんなふうに、漠然と思っているひとは多いと思います。でも、誰も「死」を経験していないから、どんなものだかわかりません。
わからないから、怖いのだと思います。不安が生じる理由は、「わからない」ことにあるからです。
死は「眠って目が覚めないだけ」
僕の考える「死」とは、すごくわかりやすくて、すごくシンプルです。
それは、単純に「眠って目が覚めないだけ」。
「死」について多くのひとは、病気だ、ケガだ、事故だ、苦しい、などとさんざん恐怖心を煽られてきたのではないでしょうか。
でも僕はそれほど怖いとは思っていません。単純に、「眠って目が覚めないだけ」と思うのです。
漠然とした不安が起きてしまうのは、ある程度、仕方のないことでしょう。
この先、たいせつなひとやパートナーを失ってしまうのではないか。
一人残されたときの将来を考えると不安でたまらない。
自分自身がこの先どれだけ生きられるのか、わからない。
でも、生きているひとはまだ、誰も死を経験していないので、どんなものだかわかりません。結局は想像することしかできないのですから、僕はこう思い込むことに決めました。
「眠って目が覚めないだけ」
そんなふうに自分を思い込ませてみたら、「死」に対する恐怖心や不安がなくなりました。
毎日、僕たちは眠りにつきます。
そして数時間後、僕たちは起きます。
けれども「死ぬ」ってことは、眠って、目が覚めないということ。
もちろんこれはあくまでも僕の思い込みです。思い込みだけれど、そう思っておくと、「死」というものが、それほど怖くなくなってくる。そう思いませんか?
わかりませんが、死を迎えるとき、ちょっと苦しいなと思いながら眠るのかもしれません。
どこかが痛いのかもしれません。苦しいのかもしれません。
それでも、結局は、気を失うように眠ります。目が覚めなければ「死」です。
そんなふうに捉えておけば、死のことを考えてしまい、恐怖のあまり思い悩んで眠れなくなる意味はなくなると思うのです。僕もこれまで、病気にかかったらどうしよう、事故に遭ったらどうしようと、さんざん恐怖心を持ち、「いつ死ぬんだろう」と怯えていた時期もありました。でも、ほんとうの「死」は、きっと全然、怖いものじゃない。
「眠って目が覚めないだけ」
僕自身がこれまでの人生にひと区切りつける。与えられた役割を終える。
そして、新たな出発を迎える。そんな感じではないだろうか。僕はそう自分自身に思い込ませています。
老いだって自然の摂理
年齢を重ねるにつれ、今までは難なくできていたことが、できにくくなることを、実感しています。目がかすんで、見えづらくなる。小さな声が聞き取りづらくなる。スマホをどこに置いたのか、行方がわからなくなる。疲れやすいなど。
心配性の僕は、約束を忘れるということはありませんが、スケジュールを眺めていて、「あっ、この打ち合わせは明日だったのか!」なんて、ハッとすることはたまにあります。
歳をとることで、あちこちに不具合が出てきます。けれども、それは何もかも当然であり、自然の摂理ではないかと思うのです。
ひとつぶの種から芽が出て、葉を広げ、茎をのばし、花が咲いたら枯れるのと同じこと。それに逆らおうとは、思いません。自動車だって、何年も走れば、それなりに壊れるところも出てくるのが自然で、修理をしながら、いたわりながら走らせなければいけません。
老いは不幸なことではない
僕は、老いを不幸なことだとは思いません。
高齢になるにつれ、手がふるえるとか、膝が痛くなるとか、体力が無くなるとか、そんな不具合は増えることでしょう。
こんなはずではなかったと嘆くひとも多いと思います。
でも、そんなのは当然のこと。ありのままを受け入れて、「それはあたりまえ」と思っておけば、べつに悲しくもないし、悲しむ必要もないと思うのです。
もともと、ひとは、誰しもが傷つきやすく、弱い存在です。生き物ですから当然なのです。自動車だって七〇年も経てば、それなりに不具合はある。
それを忘れないようにしておけば、自分にも優しくなれるのではないでしょうか。
みんな、平等に年齢を重ねるのだから、自分だけが老いていき、つらいのではありません。
平等なものであるのなら、老いに悩むことなく、自分のできる範囲で人生を存分に楽しみたい。自分の殻に閉じこもるのではなく、いろんなひとと会って、話したり、本を読んだり、たくさんの経験を重ねていきたい。
そういう日々の中で、なるほど、という気づきに感謝して、前向きに生きていきたい。会うひとがみんな、自分にとって「何か」を教えてくれる先生である。そう思って僕は日々を生きるようにしています。
子どもでも、僕より年下のひとでも、誰でも、僕に「何か」を教えてくれる先生なのです。直接、「これはこうだよ」って諭してくれることはなくても、行動や言葉、ちょっとした所作や考えで、僕に何かを学ばせてくれているのです。
そんなふうに考えて毎日を過ごしていると、明日が楽しみになり、老いに対する恐怖を感じている場合ではなくなってくるのです。
孤独は人間の条件
いつか自分も、家族や友人、大切なパートナーに先立たれ、世界で自分はただ一人になってしまったなどと、悲しみにくれる瞬間が、やってくるかもしれません。
もともとパートナーがおらず、天涯孤独のひとだって、この世の中にはたくさんいます。
孤独とどう向き合えばよいのでしょうか。
いろんなひとからこう聞かれます。
孤独はたしかにつらいこと。けれども孤独は、人間の条件ではないでしょうか。
これは僕自身、若いころからさまざまな経験を繰り返してきた中で、孤独をどう解釈しようかと考えた末、たどり着いた答えです。
孤独は、生きていくうえでの条件です。孤独を受け入れる。孤独に感謝する。だからこそ、はじめて、自分以外のひとに対して、やさしくしよう、助けよう、思いやろう、となれるのではないでしょうか。
そう考えてから、僕は孤独をつらいとは思わなくなりました。
孤独であるからこそ、他人に感謝し、他人を思いやる。孤独であるからこそ、自分を見つめ、自分と向き合い、成長をしていくのです。それは決して楽なことではありませんが、誰もがそうやって自分の人生を自分のちからで歩んでいくのです。自分の船を自分で漕いでいくように。
孤独よりつらいのは孤立
ただ、孤独よりつらいことがあります。
それは、孤立です。
ひとから自分が必要とされない。自分もひとを受け入れない。
もっと言うと、自分さえよければいい。
すべてを他人のせいにして生きていく生き方とでもいいましょうか。
孤独と孤立。漢字で書くと似たような言葉ですが、その意味はまったく異なります。
ひととひととのコミュニケーションが、まったく取れない。あるいは取ってもらえないのが、孤立です。
いつも思うのは、孤独は、生きていくうえでの最低条件として、受け入れていくことができるけれど、孤立というのは、自分自身が原因であったり、自分自身が招いて起こることです。孤立は自分のせいなのです。