次男を背負いながら勉強し、保育士の資格を取得

義母は、当時の最先端の教養を身に付けた人でもあった。名家に生まれ、東京の女子高等学校へ進学した。北白川宮家の執事が遠縁に当たり、下宿先は何と北白川宮家。

繁子さんの横で見守っている、次男の眞さん(73歳)は「小俣幼児生活団」の園長だ。眞さんは、祖母についてこう語る。

「ナミばあさんは東京にいた時、当時、できたばかりの幼稚園を見聞して、非常に感銘を受けたらしいです。それは、女性が主体となって事業をやっていることにあったようです」

東京で外交官の妻となり、自分も活躍したいという夢を持っていたが、長女が駆け落ちしたため、家を継ぐこととなり、足利に戻ってきた(大川家には代々、長女が駆け落ちする“悲恋物語”の伝説があるらしい)。

繁子さんは70年以上前、姑が保育園を開園するタイミングで保育士の資格を取った
撮影=市来朋久
繁子さんは70年以上前、姑が保育園を開園するタイミングで保育士の資格を取った

繁子さんは結婚して2年後、長男を出産した。孫が生まれたことで、開明的な義母の関心が幼児教育に向かう。繁子さんはこの経緯をよく覚えている。

「姑が役所に、『幼稚園を作りたい』と相談に行ったら、『これから保育園というものができるから、それにしたらどうか』と言われ、保育園を作るには保母が必要で、それで私に、保母の資格を取れとなったわけです」

姑の言うことに、逆らえるわけがない。繁子さんは当時生まれたばかりの眞さんを背負って勉強をし、宇都宮まで試験を受けに行った。

「みんな、実技で落ちちゃうって。でも私がピアノの実技をやったら、別のグループの子どもたちも私のピアノのそばにやってくる。ピアノを弾いて汽車ごっこをするとか、動かしたりすると、子どもが面白がって……」

ここに、繁子さんが今でも大好きな「リトミック」へと繋がる流れを見える。保育士資格は、ここで無事に取得した。

主任保育士となって60年

1949年に保育園創設に当たり、「小俣幼児生活団」という名は義母がつけた。「自由学園」の影響を受けており、大正時代からの自由教育の流れを汲むという意味を込めたのだ。

繁子さんは3人の息子が中学生になったのを機に、本格的に保育士の仕事を始める。35歳の時だった。眞さんが、こう話す。

「うちで開催した保育研究会の仕切りを、ナミばあちゃんは母に任せたんです。それで、ナミばあちゃんから『保育の責任者は、あなただ』と言われて、そこから母は主任保育士として60年働き、今に至っています」