北条氏政は米価3倍にして豊臣軍を飢えさせた

非道な話に思えるが、悪代官ではなく実際の武士が普通にそう計算していたのだから仕方がない。

するとこのとき、戦地近くでは「兵糧一升」こと米7.5合が「びた銭百文」、現代の金額で3000円になっていたことになる。そう考えると法外な値段ではなさそうに思えるかもしれないが、「一六世紀初頭の大内氏領国では、税を徴収するための巡回使節に対して、日当として一日五〇文か米五升のどちらかが支払われていた」という(川戸貴史『戦国大名の経済学』講談社現代新書、2020)。この計算に従えば、米1升は銭10文に相当する。

つまり米一升は鐚銭30文ぐらいが妥当である。それが100文で売られていたのだから、相場の3倍以上に高騰していたことになる。しかもその兵糧はすぐに売り切れた。

日本の米と稲穂
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豊臣軍の将兵にとってこれは計算外だったらしい。ここで康長は「おおっ……これは。御屋形様の計画通りになりましたぞ!」と思い、この事実を特筆したと思われる。

なにが氏政の「計画通り」だったのか? 今からそこを説明しよう。

実はかなりいい加減だった豊臣軍の兵站体制

豊臣軍の兵糧は潤沢だったかというと、そうではなかった。最初に示した秀吉が正家に命じて駿河に輸送させた兵糧20万石は、前代未聞の大変な量である。

だが冷静に考えてもらいたい。戦国時代の兵は、1日に1人1日1升(7.5合)の米を消費していた。
  東海道を進む軍勢は、先に述べたとおり約7万人。1石は100升なので、1日の消費量は7万升すなわち700石。20万石からこれを割ると、285日分ほどになる。

分量は充分だが、問題は輸送力である。当時の輸送船である関船は、100~500石積みで、20万石を輸送するにはこれを400~1600隻用意しなければならないが、それがどれぐらい困難だったかというと、文禄の役で朝鮮半島に出兵していた豊臣軍の総員撤兵に動員された船舶数は、469艘。そして撤兵が完了したのは2カ月半で、往復にこれだけの時間を要している(中井俊一郎『知られざる三成と家康』2023)。

小田原合戦の豊臣軍はこの規模に相当する動員を実行したはずだが、初めての試みであったので、“想定外”の混乱は山のようにあっただろう。後述する理由から、輸送スタッフもそれほど焦ってはいなかったはずだ。

それが氏政の罠により、兵糧輸送の遅れは大変な事態を招いた。ゆえに豊臣軍先鋒は、まともな食事が取れなくなり、高値の米を買い漁ったり、芋を掘り起こしたりすることになった。
 そして現地で買い取れる食品はここに尽きてしまった。もはや、明日を生きるための兵糧がない。兵糧がなければ、継戦能力はそこで終了である。

伊豆山中城を抜かなければ、北条の本拠地・相模小田原城へ向かえない。これでは兵站の準備などないに等しい。
 それでも戦国時代は、こういうやり方で問題なくやっていた。だから秀吉の小田原侵攻作戦は、常識の範囲で不備があったわけではない。