圧倒的に不利だった北条氏政はどんな作戦を立てたのか

今回の長束正家がやったのもそういう仕事だった。

豊臣全軍の兵糧を1人残らず緻密に計算して、これを問題なく配給するなどありえない。秀吉のもとに、そんなことのできる部下など育成されていなかった。文官代表のように見られがちな石田三成ですら、「武働き、ご苦労」とばかりに、最前線の武蔵忍城への攻撃に派遣されている。

天下取りの途上にあったベンチャー政権に、たった数年で官僚制を仕立てて人材を揃えられようか。そんなものは織田政権も作らなかった。あったとしたら、三成や正家の前に織田政権からそっくりそのまま流用したはずである。

小田原合戦の豊臣軍は、後世から見ると、兵站の事前準備をかなり適当に進めて「ヨシ!」としていた。これまでどおり、大将たちがお金を持参して戦場に向かい、そこで食料を買い込ませながら小田原城を取り囲む。それでなんとかなると思っていたのだ。

ここに北条氏政の勝算があった。

※この記事は「後編」に続きます

乃至 政彦(ないし・まさひこ)
歴史家

香川県高松市出身。著書に『戦国武将と男色』(洋泉社)、『平将門と天慶の乱』『戦国の陣形』(講談社現代新書)、『天下分け目の関ヶ原の合戦はなかった』(河出書房新社)など。新刊に『謙信×信長 手取川合戦の真実』(PHP新書)、『戦国大変』(日本ビジネスプレス発行/ワニブックス発売)がある。がある。書籍監修や講演でも活動中。 公式サイト「天下静謐