新興宗教の信者ほど落としやすい

学生時代に知り合った人で、もうやり取りのない男性が言っていたことを今でも思い出すが、新興宗教の信者で、熱心に取り組んでいる女ほど落としやすいんだよ、本当に面白いほど釣れる、とまるでゲームか何かの話をしているように笑ったことがあった。そんな風に人を見るんだなこの人は、と頭の芯が冷たくなるような感覚を持った。

ただ一方で、自分の意思よりもみんなの意思を優先することを評価される場所にいて、その居心地が悪くないと感じている人物なら、すこし強めに押せばその人は意のままになるかもしれないな、ともたしかに思ったのである。

自分を粗末に扱うことに慣らされ、搾取されることがあなたの存在意義だと教えられて、そこから逸脱することを許されてこなかった。私にも若いころはそんな部分があったかもしれない。誰がお金を出すのかとは関係なく、誰の顔色もうかがわず、メニューの一番安いほうから、ではなくて、自分の好きなものを自分に適切な量だけ選ぶ。たったこれだけのことが、できる人とできない人がいるのだ。

そして、その二者の間には大きな隔たりがある。自分を粗末に扱わない、という態度を身に着けることは難しい。けれど、それをひとたび身に着ければ、自分をリスクから遠ざけ、自分は大きな価値を持つものだと、自信をもって言うことができる。

メニューと書かれた黒板
写真=iStock.com/aydinynr
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気難しく感覚が過敏な私の場合

どちらかといえば、というかむしろ明らかに、自分はかなり気難しい部類に属する人間であると思う。うっすらと馬鹿にされ続けながら維持しなければならないような、ベタベタと近過ぎる、毎日が同じ繰り返しを前提としているような閉塞的な関係は、自分に向いていない。その気難しさを許容してくれるような相手はめったに見つからないし、見つかったところで、それ以前の相性の問題もある。

気難しくしようと思ってしているのではなく、相手に合わせるためのやる気を出すことが不可能なのである。「この相手に合わせることによるメリットはコストに見合わない」と、勝手に脳が判断するわけだが、そう脳に判断されたらもう、それ以上のことはできなくなってしまう。私は無駄なことに労力を割くのが難しい。脳の体力がないのだ。そうしようとしてそうするわけではなく、そうする筋肉がもともと存在しない、というようなものだ。それほど、無理なのだ。

気難しさと感覚の過敏さはどこかでつながっているようにも思う。例えば、私は未だに素焼きの器を触ることができない。タルカムパウダーも好きではない。その触感そのものも好きではないし、その上、自分は真っ白です、と涼しい顔をしながら、そこにある潤いを貪欲に奪っていくというありようが、どうも気に食わない。