忌野清志郎とキスした坂本のジェンダー表現は?

のちの時代の目線で、高みの見物のように過去を客観視する語りは、必ずしも正当とは言えない。たとえば坂本は、82年に忌野清志郎とのコラボ曲「い・け・な・いルージュマジック」を発表しているが、ビリー・アイリッシュのパフォーマンスが「非当事者によるLGBTQイメージの商業的搾取」と非難される現代の目線で見るなら、同曲のクィアネス(非規範的な性のサイン)はあまりに牧歌的で危うい。けれども、いまよりずっとジェンダー意識が保守的だった時代に、男性が耽美な化粧をし、MVの中やテレビ出演時にふたりがキスをしてみせることは、当時にあっては進歩的で、そのパフォーマンスに救われた人もいたはずだ。

かつてバイセクシュアルを公言していながら、その後セクシュアリティがよりシリアスな社会的イシューになっていくことを受けて、世にも稀な「実はヘテロセクシュアルでした」という逆カミングアウトをしたデヴィッド・ボウイ(坂本と並び『戦場のメリークリスマス』の主演格である)などと比するなら、「ちゃっかり感」は相対的に低いと評することもできる。80年代におけるクィアネスへの牧歌的な接近、という「凡庸さ」をどれだけ論難すべきかは、難しい。

ある作家のどの時点が最盛期である、と語ることには根本的な危うさがある。また、本稿は「坂本龍一は晩年に至るまでつねに進化しつづけていたのだ」という理解を否定するものではないし、それと矛盾するものではない。

坂本が最も反時代的で非凡だったのは21世紀に入ってから

筆者は坂本にインタヴューしたことがあるのだが、その折に、本人に対して近いことを伝えている。要約するとこうだ。「坂本さんはつねに前進を試みていて、すなわち更新主義的である。モダニスティック(近代主義的)だ。マイルス・デイヴィスはジャズの進化に、アストル・ピアソラはタンゴの進化に、個人の生きる時間が幸福に並走していたと思うが、坂本さんもそのような音楽家ではないか」。この理解には一定の同意を示してくださったと記憶している。

ここで言う進化には「老い」が含まれることを、坂本がいなくなったいま、改めて感じる。「若いこと」「老いながらも若くあろうとすること」「老いること」。坂本はその3つのステージを十全に生きた。そのことを通して、この社会に不足しているものを教えてくれていたようにも思う。なぜなら、現代日本は加齢の仕方を、すなわち老い方を忘れてしまった社会だからだ。であるなら、坂本は21世紀に入ってからがもっとも、反時代的で、非凡であったと言える。「自分をまだ若者だと思っている中年が増えている」という言い方がなされるようになって、もうずいぶん経つ。