時代に翻弄された坂本龍一、愛新覚羅溥儀、甘粕正彦

1980年代当時、世界にあった緊張感を、後追い世代は直接には知りえない。1945年の敗戦後、アメリカは、日本が共産主義化し東陣営にとられてしまうことを、あるいは東西ドイツのように分裂してしまうことを恐れていた。その緊張と分裂可能性はひとたびやりすごせばなくなってしまうようなものではなくて、潜在的脅威は90年代まで続いた。「冷戦対立」とはそのようなものであったと、教科書やそれ以外で習った。

だから端的に、アメリカや西洋諸国は、いまより日本に甘かった。というのもおそらく、日本は第三世界(冷戦時代の用語。アジア、アフリカなど東西構造の外にいる世界中のたくさんの発展途上国家)に向けての、モデルショーケースだったから。「西側=資本主義側につくならば、未来は明るいのですよ」。当時の日本は、憧れられていた。しかしそれは日本を憧れられるように仕向ける、それによって利をなす外力に大きく下駄を履かされてのことだったのだろう。

『ラストエンペラー』は、ひとりの人間でありながらにして、世界の対立に翻弄ほんろうされ数奇な人生を送った人物、愛新覚羅溥儀を描いたフィクション映画である。中国清朝の最後の皇帝は、大日本帝国に手を差し伸べられ、満洲国の元首として迎え入れられる。「大日本帝国側につくならば、未来は明るいのですよ」。訪日した溥儀を日本は大いに歓迎する。その後、溥儀は用済みとなる。映画中では、そのことを告げにやって来るのが、坂本龍一演ずる甘粕正彦だった。

戻ろう。20世紀後半の日本は、苛烈かつ静的な――まさに冷戦的な――政治的バランスのもと、経済的文化的豊かさと平和を偶然に享受できた時代だった。坂本は1952年生まれ。今後「日本史上最良のとき」と振り返られるかもしれない20世紀後半という半世紀に、人生の大部分を生きた芸術家。それが坂本龍一である。