ウクライナ戦争を、私たちはどのような視座から見るべきか。元外交官で作家の佐藤優氏は「日本のマスメディアはロシアから発信される情報をまじめに分析しようとしていない。私たちは価値観の肥大化を警戒すべきだと思う。ウクライナ情勢を価値に流されず、多面的に見るよう努めるべきと思う」という――。

※本稿は、佐藤優『よみがえる戦略的思考 ウクライナ戦争で見る「動的体系」』(朝日新書)の一部を再編集したものです。

太平洋戦争を振り返ることでウクライナ戦争がわかる

ウクライナ戦争について考察する前に、まずは1941(昭和16)年12月8日の日本にさかのぼってみる。

日本は、国民総生産で約12倍、航空機生産量で5倍、国内石油産出量に至っては約800倍の差(いずれも開戦時)があるアメリカを相手に戦争を始めた。なぜ、勝ち目のない戦争に突入したのか。今なお、問い続けられている。ウクライナ戦争について考察するにあたり、太平洋戦争の話から始めるのには理由がある。

曇り空にはためく日本の国旗
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外交あるいは国際政治は、「価値の体系」「力の体系」「利益の体系」の総合から成り立っている。この三要素のうち、どれか一つでも肥大化することで、バランスを欠いてしまうと、国を誤ることになってしまう。太平洋戦争の開戦を価値の体系で見るとこうなる。

欧米列強、つまり白人によって植民地支配されているアジア諸国の解放を日本が主導して行う大東亜共栄圏の構築という大義が掲げられた。客観的に見てその構想を実現する力が日本にはなかった。開戦時の日米の国力差では圧倒的に日本が劣っていた。開戦の半年前、日本は南部仏印(フランス領インドシナ)に進駐した。泥沼化する日中戦争の打開と資源が豊富な南方進出の足がかりを作ることが主目的だった。しかし、南部仏印進駐をきっかけにアメリカは対日石油輸出を禁止した。将来の利益獲得どころか、日本国家と既得権益を守ることさえ覚束なくなってしまった。

価値の体系:開戦を主張する東條

当時の指導層は彼我の国力差はわかっていた。開戦直前、ハル・ノート(米国務長官コーデル・ハルが提示した覚書。事実上の最後通牒)への対応をめぐって開かれた11月29日の重臣会議のやりとりを、当時の外務省アメリカ局長だった山本熊一氏が『大東亜戦争秘史』にまとめている。その内容を作家の半藤一利氏が『戦争というもの』(PHP研究所)で紹介している。重臣会議における東條英機首相兼陸相と重臣の若槻礼次郎との応酬が、価値の体系と力の体系との衝突を体現している。東條は開戦を主張し、こう語る。

〈自存自衛と八紘一宇、すなわち東亜諸民族をして、それぞれがその所を得しむる新秩序の建設を妨害せられては、大日本帝国としては起たざるをえないのである。今日まで外交交渉打開につとめて大いに自重してきたが、しかし、いまや武力を発動しても営々たる正義の行動たるに恥じないのである〉(『戦争というもの』)