母をイヤだと思う自分を責める日々

思春期になり私が強く反発するようになると母は、私の社会性の部分を巻き込んで「学校(や先生や友達)に言うぞ」と脅すという形で100億倍にして返してくるようになりました。脅すだけではなく実際に実行しちゃうこともあります。

ちょっとやそっとじゃ言うことを聞かない年齢になってしまった私をおさめるために、母は「恥をかかせて黙らせる」という範囲を家庭内から家庭外へ拡大したのでした。

母に反発するととんでもないことになる、という法則が、自然と人生の主軸になっていった時期だったと思います。

ちなみに父は一切ノータッチ、我関せずでした。

高校2年生の時、私は十二指腸潰瘍(主にストレスが原因とされる病)になります。医師に「受験を控えた高校生がよくなる」と言われたので親子関係が原因だとは思っていませんでした。当時も今も父は私の病気のことを知らない感じです。

母の絶好調さは私が社会人になっても衰えず、むしろパワーアップしていきました。私との信頼関係ができていないのに、私のフィールド(友人関係やバイト先)で人間関係を開拓しようとしたり、お母さんモウレツ・フィーバー状態でした。

その頃の私は「もう大人なのに、未だにお母さんのペースに合わせられず、お母さんのことをイヤだと思う自分はコドモだ」と自分を責めながら、なんとか母とうまくやっていける道を模索し続けていました。常に頭の中の大部分が母に占められている20代でした。

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イラスト=田房永子

結婚を機に絶縁、心の回復に取り組む

結婚を機に、父も一緒にフィーバー・フルスロットル状態になってしまったことで、私の中でビッグバンが起こりました。

「あ、もう、親と仲良くしなきゃとかそういう問題じゃないんだ。この人たちと関わってたら私の人生は死ぬんだ」と気づき、両親と一切の連絡を断つことにしました。

そこから親子問題について本を読んだり、勉強を始め、両親とは連絡をとらず、心の回復と自分の人生の主軸を自分自身に合わせる、ということに取り組み始めました。

その時は、親と仲良くなりたいとか全く思っていなくて、葬式があっても行くことはない、と心に決めていました。「親と仲直り」をゴールにするのではなく「自分の人生の回復」を軸に生きることにした、という感じです。

そこから5年後、子どもが生まれたことで私に迷いが生じます。

それまで「私にとって親は、声を聞いたり思い浮かべただけで具合が悪くなる相手。親であっても会う必要はない」と自分の気持ちに寄り添うことで、初めて自分自身との信頼関係を持つことができるようになっていました。

だけど自分の中に、「赤ちゃんを親に見せたい」という体の底から湧いて溢れる本能的な欲望を感じ始めました。