スーパーでパートをしながら、職を探した。運よく、公立保育園の給食調理という正規職員の仕事を得た。

「公務員なのですが、一般的な公務員ではなく、現業職という、賃金は最低ランクのものです。25歳から5年間働きましたが、壮絶ないじめを受けました」

給食調理は、女性だけの密室の職場だ。初出勤時、挨拶をしたらこう返ってきた。

「あんた、男に捨てられた女だろう」

言葉の暴力だけでなく、給食の調理器具で殴られて、痣だらけになる日々。園長に訴えても、「あなたが毅然きぜんとしていないからだ」と、いじめられる側に非があると言われるだけ。

「今でいうハラスメントですが、下の子どもが保育園を卒園するまでと思い、5年間、我慢しました。日曜の夜になると、お腹が痛くなるんです。人的環境もひどいし、待遇だけはまあ、よかったですが」

子どもの小学校入学と同時にさっさと辞め、次に就いたのが生命保険の営業だった。

「人と会って話すことのほうが、給食調理より、私には向いていると思いました。きめ細やかな心配りとか、感情労働を求められる部分もあるので、私には合ってるなと。ただ不安定雇用ですし、ノルマもあり、稼げるものではありませんでした」

子を心配する母親
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トリプルワークの過労から重度のうつに

そこで照子さんは、トリプルワークを行う。輸入酒の委託販売と、広告代理店から依頼されて販売促進ツールを作る仕事。三つの仕事はすべて、時間に融通がきき、隙間でやれるものだった。

「全部、面白かった。直接、いろんな人と交流があって、社会的に開かれていて、私には合っていると思いました。面白かったのですが、働き過ぎて過労で倒れちゃったんです」

35歳のときだった。朝、起き上がろうとしたら、背中に鉄板が入っているようで動けない。息もできない。救急車で運ばれて緊急入院、そのまま病名もわからないまま1カ月入院した。過労が原因だった。

退院後は、典型的なうつ症状に見舞われた。いきなり泣き出したり、無気力になり、起き上がることも歩くこともできない。トイレにも、ムカデのように這って行く。この状態が1年続いた。

「仕事は辞めざるを得ないし、ここでこれまで教育費にと貯めていたお金を全部、使ってしまいました。失業保険もないですし。このときは児童扶養手当を受けていなかったので、医療費もかかる。あの頃は手当を受けなくても、自分の力で育てられると思っていたのですが、そんなものは何年も続かないわけです」

これほど重度のうつを患ったのは、これまでを見れば当然のことだった。ホームレス生活を強いられたこと自体、ある意味、暴力=DVだ。なぜ男は母子を冬空の下、凍えさせておいたのか。さっさと働き、屋根のある暮らしを保障すべきなのに。実家での激しいバッシングに加え、給食調理室でのいじめ、そして3つの仕事をかけ持ちするという、無茶な働き方。これで、自身が壊れないわけがない。

うつから生還し行き着いたのが、派遣の仕事だった。

「ずっと安定した職を追い求めて、気がついたら40歳になっていました。そのときにたまたま、派遣の仕事にありついたのです」