世界でいちばん働いているのに、先進国で一番貧乏なのが、日本のシングルマザーだ。貧困にあえぎながら、なんとか長い子育ての時期を過ごしても、その後が安泰なわけではない。自分が老人なのに親の介護。年金はまったく当てにならない。ハード・アフター・ハード。自らもシングルマザーであるノンフィクション作家の黒川祥子さんが、働く女性を嫌う日本社会の実態から生じる女性の貧困の真実を取材した――。

※本稿は、黒川祥子『シングルマザー、その後』(集英社新書)の一部を再編集したものです。

世代間で貧困の連鎖が起きている「貧困の総合商社」

渡辺照子さん(60歳・当時)へのインタビューが実現したのは2020年1月末だった。“れいわカラー”のピンクを差し色にしたシンプルな服装、飾らない笑顔があたたかい。

渡辺照子さん
2019年夏、れいわ新選組から参議院議員選に出馬。国政に殴り込みをかけた(2022年4月、立憲民主党から練馬区議会議員補選に出馬して当選)。(写真=時事通信フォト)

照子さんは現在、90歳になる認知症の母親と、新宿区にある実家で暮らしている。

「賃貸なら、とても住めないような場所ですが持ち家なので、何とか。ただ、バブル期から地主に立ち退きを迫られています。でも土地を旧借地権で借りているので、法務局に地代を供託すれば、追い出されることはないんです。ただし、上物が壊れると借地権が消失するから、ひやひやです。古い家ですから」

39歳の息子と36歳の娘は、それぞれ埼玉県で暮らしている。息子は単身の派遣労働者、娘は介護職の正規社員と結婚し、自身は銀行の契約社員として働いている。二人が埼玉に住んでいるのは、都内より家賃が安いためだ。

娘夫婦は、子どもを持たないという選択をした。共働きでギリギリの生活のため、子どもを養育する費用が捻出できないからだった。

「娘から、『お母さん、ごめんね。孫の顔を見せてあげることができない』と言われています。養育できる見通しが立たないからと。息子に至っては、結婚できないですね。できる感じがしないです。だから、私が“貧困の総合商社”と言うのは、自分だけでなく、貧困の世代間連鎖が、こうして起きているのだという意味合いでもあるのです」

息子は大学に通っていたが、アルバイトのし過ぎで留年し、中退した。正社員雇用を望んでも派遣労働しかなく、結婚さえ望めない。娘は夫婦二人で働いているのに、子どもを持つことすらできない。いくら夫が正規雇用とはいえ、介護職は過酷で低賃金な職業だからだ。

なぜ、今、こんな社会になっているのか。なぜ働いているのに、これまで「普通」とされてきた生活を手にすることができないのか。照子さんを政治の世界へ突き進めたものは、自分のみならず、子の世代までをも飲み込む貧困の理不尽さにあった。

新生児を抱えて野宿の日々

「私の場合は、ちょっと特殊で」と照子さんは言うが、ちょっとどころか、照子さんのような状況で出産した女性を私は他に知らない。

大学生のときに男性と出奔、大阪・西成のドヤ街などで、野宿生活をする中での妊娠だった。

子どもの父親は日雇い労働をたまにする程度で、普段は働かないため、「ドヤ」と呼ばれる簡易宿泊所にすら泊まれないし、産婦人科にかかる金もない。

「お腹が大きくてふらふらしていたら、親切な方が自宅に泊めてくれた。そしたら翌朝、赤ちゃんがバーッと出てきたんです。産んだというより、勝手に飛び出したって感じ」

まさに、奇跡の出産だ。その家には迷惑をかけられないと、産後3日目から新生児を抱えての野宿生活。季節は冬だ。この時点でも病院には行っていないし、子どもの出生届も出していない。

「赤ちゃんを抱っこして、体育座りをして寝るという、半端なホームレスです。他の皆さんは段ボールを調達して、布団をかけて寝ているでしょう? その調達もできないんです。若かったから、できたんでしょうね」

なぜ、子どもの父親は新生児と産婦に屋根のある暮らしを保障しなかったのか。働けばいいだけの話なのに。それでも照子さんは、その男と一緒にいた。

ホームレスの男性
写真=iStock.com/redhumv
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2年後にまた、妊娠した。奇跡はそうそう起こらない。この日だと思ったときに、なけなしの金で1泊5000円のホテルに宿泊、布団の上にビニールシートを敷いて、そこで産んだ。

「そもそも、お医者さんに診てもらっていないので、妊娠何週なのかもわからない。自分の身体で、何となくこの日かなと思って。だから、自力出産というやつです」

手元に残ったのは500円のみ、新生児を抱えての野宿の日々が始まった。上の子の服を幾重にも重ねておくるみにして、寒さ対策とした。

「『赤ちゃん、どうだろう?』って、すごく心配でした。母子3人で、凍え死ぬってこともあり得るなって。子どもが何とか、死なないでいてくれた感じです」

ホームレス生活5年目を迎えた頃、男とはぐれてしまい、照子さんは実家に戻る。子どもを育てるには、それしかなかったからだ。

母子家庭を非難するのは身近な家族や親族

実家に戻った照子さんは、母子家庭を非難し叩くのは身近な家族や親族、友人なのだという現実を知った。

「結婚に失敗して、どこの馬の骨とも知れない男の子どもを二人も産んで……」
「うちにとって、迷惑。そんな状態の人間を背負うなんて」

理解ある家族や友人だと思っていたが、自分を見る目は明らかに豹変ひょうへんした。

「家にいても、親や妹から『あんたは家政婦』と言われ、落ち度を追及される。両親が子どもを可愛がってくれなかったのが、一番辛かったですね。孫に、罪はないわけですから」

バッシングに耐えることができたのは、高校時代に学んだフェミニズム思想のおかげだった。「個人的なことは社会的なこと」という言葉で自分を支えた。これは決して、自分一人の問題ではないのだと言い聞かせた。

あるとき突然、子どもの父親がやってきた。両親は男をアパートに住まわせ、見つけてきた会社で働かせた。しかし、何の前触れもなく、男はいなくなった。以降、男の消息はわからない。こうして照子さんは、シングルマザーとなった。

「母子家庭にもランクがあって、一番上は死別母子家庭、次に慰謝料や養育費を取り決めた、離別母子家庭。私は失踪による母子家庭ですから、最低ランクです」

男の失踪で、家族からの非難はさらに激しいものとなった。

「あんなしょうもない男の子どもを産んだんだから、おまえは子どもを連れて家から出て行け! おまえも、死ね!」
「死にません。誰が子どもを育てるのですか! だから、死にません!」

子どもを守るのに必死だった。

「誰も信用できない状況で、すごく傷ついていたんですけど、結構、闘っていましたね」

給食調理の仕事で壮絶ないじめを受ける

働くためには、子どもを保育園に預けるしかない。ここで子どもの戸籍を作ることとなった。戸籍がないと、福祉のサービスは受けられないからだ。

「法務局で、自分が産んだ子どもだと証明しろと言われても、証明するものは何もない。居直って子どもを連れて行って、『私が産んだ子だ』と言ったら、『はい、わかりました。あなたのお子さんですね。これで戸籍を作ります』となぜか、一発OKで作れました」

スーパーでパートをしながら、職を探した。運よく、公立保育園の給食調理という正規職員の仕事を得た。

「公務員なのですが、一般的な公務員ではなく、現業職という、賃金は最低ランクのものです。25歳から5年間働きましたが、壮絶ないじめを受けました」

給食調理は、女性だけの密室の職場だ。初出勤時、挨拶をしたらこう返ってきた。

「あんた、男に捨てられた女だろう」

言葉の暴力だけでなく、給食の調理器具で殴られて、痣だらけになる日々。園長に訴えても、「あなたが毅然きぜんとしていないからだ」と、いじめられる側に非があると言われるだけ。

「今でいうハラスメントですが、下の子どもが保育園を卒園するまでと思い、5年間、我慢しました。日曜の夜になると、お腹が痛くなるんです。人的環境もひどいし、待遇だけはまあ、よかったですが」

子どもの小学校入学と同時にさっさと辞め、次に就いたのが生命保険の営業だった。

「人と会って話すことのほうが、給食調理より、私には向いていると思いました。きめ細やかな心配りとか、感情労働を求められる部分もあるので、私には合ってるなと。ただ不安定雇用ですし、ノルマもあり、稼げるものではありませんでした」

子を心配する母親
写真=iStock.com/yamasan
※写真はイメージです

トリプルワークの過労から重度のうつに

そこで照子さんは、トリプルワークを行う。輸入酒の委託販売と、広告代理店から依頼されて販売促進ツールを作る仕事。三つの仕事はすべて、時間に融通がきき、隙間でやれるものだった。

「全部、面白かった。直接、いろんな人と交流があって、社会的に開かれていて、私には合っていると思いました。面白かったのですが、働き過ぎて過労で倒れちゃったんです」

35歳のときだった。朝、起き上がろうとしたら、背中に鉄板が入っているようで動けない。息もできない。救急車で運ばれて緊急入院、そのまま病名もわからないまま1カ月入院した。過労が原因だった。

退院後は、典型的なうつ症状に見舞われた。いきなり泣き出したり、無気力になり、起き上がることも歩くこともできない。トイレにも、ムカデのように這って行く。この状態が1年続いた。

「仕事は辞めざるを得ないし、ここでこれまで教育費にと貯めていたお金を全部、使ってしまいました。失業保険もないですし。このときは児童扶養手当を受けていなかったので、医療費もかかる。あの頃は手当を受けなくても、自分の力で育てられると思っていたのですが、そんなものは何年も続かないわけです」

これほど重度のうつを患ったのは、これまでを見れば当然のことだった。ホームレス生活を強いられたこと自体、ある意味、暴力=DVだ。なぜ男は母子を冬空の下、凍えさせておいたのか。さっさと働き、屋根のある暮らしを保障すべきなのに。実家での激しいバッシングに加え、給食調理室でのいじめ、そして3つの仕事をかけ持ちするという、無茶な働き方。これで、自身が壊れないわけがない。

うつから生還し行き着いたのが、派遣の仕事だった。

「ずっと安定した職を追い求めて、気がついたら40歳になっていました。そのときにたまたま、派遣の仕事にありついたのです」

派遣労働が最も長い仕事になった

企業に勤めている知人から、助けて欲しいと連絡があった。2001年のことだった。

「派遣の女性が急に辞めてしまい、急ぎの報告書があるから、うちの仕事に変わる気はない? 手伝って欲しいんだ」

願いに応じて、仕事先を変えた。それだけのことだった。本来なら、その企業に直接雇用されるべきなのに、派遣女性の代わりなので、便宜的にその女性の派遣元企業に登録して、知人の企業=派遣先企業に勤めにいくという形となった。

「給料は派遣元企業から振り込まれるわけですから、いくら派遣先企業の人からの声かけで勤めたにしても、他の派遣の人と一緒。こうして、ずっと派遣労働者人生を送るわけです」

派遣とはいえ、照子さんは同じ企業に16年8カ月勤務することとなった。

「本来、派遣って短期仕事だから、長続きする性質のものではない。でも皮肉にも、私の場合はその派遣こそが一番、長続きできた安定雇用だったんです」

就いたのは、事務職。初めての仕事だったが、事務とは何てラクなのかと思った。営業のようにノルマもなければ、移ろいやすい人の心を相手にするものでもない。

「女性が就きやすい仕事といえば、介護とか保育とかの接遇サービスですが、これらはみんな感情労働です。人を相手にして、しかも自分の感情を抑えて、いかに相手をもてなすかが求められる、大変な仕事です。女性の仕事の中で、感情労働が少ないのが事務、だから女性は、事務の仕事をしたがるんです」

派遣労働者の給与は、派遣元企業に3割ほど取られる仕組みになっている。加入が義務化されている社会保険は労使で折半、40歳以上だと介護保険が引かれ、さらに雇用保険や「諸経費」という実体のわからないものも引かれ、手取りは20万円程度。派遣に交通費はない。ちなみに、2020年4月の法改正で交通費や賞与などは支給しなければならなくなった。

「勤務体系は、正社員と一緒。それなのに毎月、正社員がもらえている住宅手当、扶養家族手当などの諸手当、夏冬のボーナスはない。私のように約17年も勤めたのに、退職金もなかった。派遣とは、そういうことなのです」

「あなたの自己管理ができていないから……」

どうしても正社員になりたかった。だから照子さんは、正社員以上に働いた。残業が月に100時間ほどとなり、本来は正社員がする海外からの客の世話も任された。正社員が休日出勤は嫌だと言えば、代わって出勤した。

家に帰るのが24時を回り、お風呂に入って寝れば、また朝が来る。子どもたちが中高生となり、手がかからなくなっていたことも大きかったし、同居している実母もいる。

「今でも娘は、『お母さんが育ててくれたとは思わない。自分で育った』と言いますよ。娘は私より料理が手早くて、上手です」

子どもが一人で育ったと言い切るほど、働いてきた。パワハラもセクハラもあったが、正社員になりたい一心で、会社を休むことは絶対になかった。

あるとき、シュレッダーの前で身体が動かなくなった。意識を失って倒れ、救急車で運ばれた。原因は長時間労働による過労、明らかに労災だ。労災の申請は、雇用主である派遣元企業が行う。返ってきたのは、「あなたの自己管理ができてないから、そういうことになる」の一言。いくら食い下がっても、労災は申請できなかった。照子さんはこう見る。

「派遣先企業は、派遣労働者という道具を借りてくるだけなので、自分の手で修理することはしません。派遣元企業も壊れた道具を修理して、また使えるようにしようとは思わないんですよ。修理なんて面倒だから、放っておこう。これが、派遣の構図なんです」

17年間働いたのに「法改正」のためにクビになる

2015年9月30日、労働者派遣法が改正された。派遣労働者からしてみれば、3年ごとに派遣先を変えなければならないという「改悪」だった。

同年8月、照子さんは派遣労働者当事者として、参議院厚生労働委員会に登壇、改悪阻止を訴えた。

「有給をバンバン使って、国会でロビー活動をしたり、厚労省の官僚が参加する学習会などで派遣労働の実態や、法制度の矛盾、問題点などを自分の経験を通して訴えてきたので、その活動が認められての登壇でした」

「改悪」派遣法は施行され、皮肉にも照子さん自身、2017年12月での雇い止め通告を受けるのだ。58歳での雇い止めだ。何と残酷なことだろう。

「私は約17年勤務しましたが、同時期に24年間、派遣で勤めていた人も雇い止めを受けました。物を捨てるように、長年勤続の派遣を切っていく、会社のやり口をまざまざと見た思いです」

自分の意思とは関係なく、退職金もなく裸で社会に放り出される。毎月、雇用保険を払っていたのに失業後、ハローワークで、「あなたのような仕事には使えない」と言われた。雇い止めとはそういうことだ。しかも50歳を過ぎれば、派遣元は新たな派遣先を紹介しないということも、派遣の世界での常識だった。58歳という年齢ゆえ、照子さんがいくら粘っても、次の派遣先の紹介はなされなかった。

「元派遣労働者・シングルマザー」で国政に殴り込み

照子さんは派遣ユニオンに加入、矛盾だらけの状況と闘うことを決意する。「れいわ新選組」に合流する流れが、ここにくっきりと見えてくる。

照子さんは女性労働問題研究会の会員として、派遣労働や女性が低賃金に置かれている構造についての論考を発表するなど、研究活動も行っている。

黒川祥子『シングルマザー、その後』(集英社新書)
黒川祥子『シングルマザー、その後』(集英社新書)

そして、「元派遣労働者・シングルマザー」という当事者として、国政に殴り込みをかけた2019年夏、「庶民による庶民のための政治」を訴えた(2022年2月、れいわ新選組から立憲民主党に移籍。4月の補選で練馬区議会議員に当選した)。

照子さんは決して、「元シングルマザー」とは名乗らない。確かに、子育ては終わった。しかし……。

「まだ息子の教育ローンを返し切れていないこともありますが、貧困の世代間連鎖が現に起きているわけです。子どもがいてくれて頼りになる部分と、そういうプラスマイナス含めて、私にはシングルマザーという当事者性が拭えないものとして色濃くある。だから、シングルマザー当事者として闘っていきます」

目指すのは自己責任論で弱者をバッシングするのではなく、誰もが生きやすい社会だ。この照子さんの活動は既存にはない、新たな取り組みとなるだろう。それは、私たちシングルマザーにとって間違いなく、一つの確かな希望だ。