誰も幸せにしない「平均人」

平均人は、実は「存在しない人」です。あらゆる面において平均的な人は誰もいないからです。だから平均人をモデルにした標準化に、ぴったりフィットする人はいません。誰もが「自分にはぴたっと合っていないな」と感じながら仕事をしています。つまり、誰も幸せにしない姿なのです。

それでも、拡大し続けるマーケットに向けて効率と大量生産を追求した高度成長期まではうまくいったかもしれません。でも、それで2022年の世界にマッチするでしょうか?

私たちの多くが、ほんの数年前にはまさかコロナ禍や大国の戦争が起こるなんて、想像もしていませんでした。これほど先の読めない、変化のスピードが速い時代に、イノベーションを生むどころか、誰も自分の能力を最大限に発揮できていない状態で、やっていけるでしょうか。

平均人という、たった1つの型に人を当てはめるやり方よりも、「男性」「女性」という型のほうが種類は多くなります。しかし、それで「個別最適化しています」とはとうてい言えません。性別だけでは、分類の「箱」が大きすぎるのです。一人ひとりにパフォーマンスを発揮してもらい、集合知のパワーを生み出すにはどうすればいいかを考えなくてはならない時代に、性別だけでは解像度が低すぎると言わざるをえません。

社会的圧力が作る性差

そもそも男性の中にも女性の中にも多様性があります。その多様性というのは、基本的に「特性」×「経験」で決まっていきますが、社会的プレッシャーなどが性差を形作ってしまうことがあります。

たとえば本来、単純なカテゴリーとしての「男性脳」「女性脳」は存在しませんが、「女性はこうあるべき」「男性はこうあるべき」という社会的な圧力などによって、能力上の性差が明確にあるかのように見えることがあります。

「女性は理系科目が苦手」というのは典型的な例です。周囲が「女の子は算数や理科が苦手だから」と言い続けることで、本人が「自分は苦手なんだ」と思い込んでしまったり、学部や職業を選ぶときにも、理系の道に進むことをあきらめてしまったりします。その結果、今も理系の学部や理系とされる職業は、圧倒的に男性が高い割合を占めています。

関連する話として、今、発達障害の世界では、「(社会的)カモフラージュ」や「マスキング」という言葉が注目されていますが、社会が作り出す性差の問題も、非常に似ていると感じます。