大学在学中から、父親のもとで納棺師のキャリアをスタートした木村光希さん。葬儀業者の下請けとしての納棺師では限界があることに気づき、起業を決意しあたらしい納棺と葬儀を模索してきました。何千もの死に向き合って気づいた死生観とは――。

※本稿は木村光希『だれかの記憶に生きていく』(朝日新聞出版)の一部を再編集したものです。

菊
写真=iStock.com/hichako
※写真はイメージです

あたらしい納棺とお別れの場――突然死してしまった1歳児

ひとつひとつの現場はまったくちがうものであり、同時に、納棺師はどの現場も同じ「重さ」で捉えなければなりません。

つまり、故人さまがどんな属性であっても、どんな死因であっても、すべて同じようにおおくりするのがプロなのです。

しかしそうはいっても、正直、はじめてちいさなお子さん―――突然死してしまった1歳児の納棺を担当したときは、やはりことばにできない切なさを感じてしまいました。

まずご遺体が乳幼児の場合、処置の方法もおとなとはやや異なります。

たとえば水分量が多く乾燥がとても早いため、入念な保湿が必要です。また、おおきなドライアイスではうまくご遺体を冷やせませんから、砕いたものをすこしずつ、注意深く置かなければならない。細かい、技術的な注意点がいくつもあるわけです。

ただ、そうしたポイントを頭のなかで復習しつつも、あくまで「いち個人」。乳児だからと考えすぎないようにしよう、いつもどおりの納棺をしようと落ち着いた気持ちで現場に向かったわけですが……やはりちいさな子どもとのお別れは、雰囲気がちがいます。ご両親、とくにお母さんは心神喪失に近い状態でした。

「納棺師の木村です」とごあいさつをしても焦点が定まらず、意識が遠くにある。「いまから納棺の儀式をおこないます」といったご説明をしても、まったく耳に届いていない。数日前まで元気いっぱいだったかわいい我が子が突然いなくなってしまったことが、とても受け入れられないようでした。

最後の「おきがえ」

納棺は、お父さん、お母さんとぼくの3人でおこないました。いまにも崩れ落ちそうになりながら、もう動かないお子さんの姿をじっと見つめつづけるお母さんと、その身体を支えるお父さん。

納棺では基本的に、お着せ替えやお化粧などの一連の流れを納棺師がおこない、ご遺族はその儀式を見ていただくというかたちを取っています。とくにお化粧などはご遺族や近しい方に手伝っていただくこともありますが、基本は「どうかいまだけはプロにお任せください」というスタンスです。

でもそのときは、「はたしてこれは、ぼくがやるべきだろうか?」と強い違和感を持ちました。

たとえば成人された故人さまであれば、納棺師がお着せ替えすることに迷いはありません。しかし、この故人さまは、まだ赤ちゃんに近い子どもです。紙おむつをつけたりしますから、お着せ替えというよりまるで「おきがえ」のよう。

つまり、昨日まで、お父さんやお母さんがおこなっていたことなんです。

いくら葬儀社からのオーダーがあったからといって、ただそれに従っていいのか。ここでぼくが「最愛の我が子の最後のおきがえ」をおこなうのは、なんだかおかしいんじゃないか。そんな疑問が湧き上がりました。