誰かのサポートに徹していた若い頃
昭和の高度経済成長期に青春時代を過ごした順子さんは、特になりたいものもないまま、大学卒業後は一般職のOLになり、事務職を務めた。実家からは「田舎に帰ってこい。地元のジャスコで働けばいい」とよく言われていたという。
絵を描くことが好きで、デザイナーになりたいと思ったことはあった。だが、当時は「結婚する」という夢が先に立っており、ボーイフレンドのやりたいことを手伝うことを最優先にしていた。
公認会計士を目指していた男性とお付き合いしていた時は、「結婚するなら私も簿記ができないと」と順子さんも簿記の学校に通い出した。
しかし、順子さんはここで「やりすぎて」しまい、税理士を目指すレベルまで熱心に勉強していたら、その男性が離れていってしまったという。人の役に立つのが好きなのだが、ハマるとそれを忘れてのめり込んでしまうふしがあるのだ。
その後、別の男性と結婚。夫は長野でスーパーマーケットのチェーンストアを経営する家庭の出身で、自身も軽井沢で土産物屋などを商いながら、チェーン展開を目指していた。順子さんは早速チェーンストアについて熱心に勉強し、土産物店のチェーンストア展開に邁進することになる。
15年働き続けて芽生えた不満
「軽井沢という土地柄、観光よりも家族の時間を大切にしたいと考えるお客様たちは、家で使うホームファッションに目を向けるのではないか」と品物をそろえていくと、その評判が上々で、「旧軽井沢の商店街に生活雑貨品のお店を出しませんか」と早々に出店の打診をもらうことになった。ここから次々に新規出店の話が舞い込んでくる。
夫との二人三脚でチェーンストア展開を続け、退職するころには十数店に拡大。子ども二人は夫の実家に預けながら、睡眠時間を削って必死で働いた。幸い、義理の両親は商売一筋の人たちで、経営を切り盛りする順子さんへの理解があった。順子さんも、全く知らなかった商いの世界のことは義理の両親から学んだ。「嫁ぎ先は私にとってディズニーランドでした」と振り返る。
しかし、15年働き続けてきて、ふと順子さんにある不満が芽生えたのだ。――夫は出店場所を見つけてきて、会社はどんどん大きくなる。しかし、こんなに出店する意味はあるのだろうか?
もともとはデザイナー志向のある順子さんだ。日常遣いに「美」を求め、身の回りの物をシンプルにして暮らしていきたいと考えていた。
しかし、チェーン展開を続けていくうちに、ニトリや無印良品などライフスタイル系の専門店が台頭し、いつしか商品の質以上に価格における競争に陥っていた。
そうすると、購買の場面でも、できるだけ安いものを選ぶようになっていく。あるいは、付き合いの長い業者との商談で、言われるままに商品を仕入れることも増えた。そうして、シンプルどころか店にモノがあふれていくようになった。
どんなに一生懸命やっても自分の目指す店にはならず、自分自身の限界を感じるようになった。眠れない日々が続いた。
一方、夫は商材にはあまりこだわらず、さらにチェーン店化を推し進めていきたいと考えており、夫婦の溝は深まった。