48歳、娘の大学進学とともに家を飛び出す

順子さんが48歳になった頃、転機は訪れた。娘が大学に進学し、子どもが二人とも家を離れたのだ。

「私はお手伝いとして夫の家に入りました。そこから何年も過ぎたのに、自分自身の志はありませんでした」

順子さんは、自分に何ができるのかもわからないまま、夫の会社を退職し、娘の大学入学と同時に家を飛び出した。

取引先の一人が、「今度神戸で雑貨店をやるから手伝ってほしい」と声をかけてくれたので、スタッフ二人と一緒に、順子さんは縁もゆかりもなかった神戸に向かった。しかし、このお店ではたった2カ月でお払い箱になった。

誘ってくれた人は、順子さんに販売員として手を貸してほしかったようだった。しかし、やるとなったらとことんやろうとするのが順子さんだ。「バックヤードの掃除から始めたら嫌がられたみたい(笑)」と反省する。

自分が仕事で一番好きだったのは「モノを売ること」ではなく、「売れる仕組みを作ること」だったと気づくのは、家を飛び出した後のことだった。

「世の中に必要とされていない」ことを痛感

まだ貯金が残っていたので、神戸・元町で雑貨店を開いてみることにした。バリの家具を敷き詰めた10坪の店内はとてもおしゃれだったが、かつて軽井沢で店舗を構えた頃とは違い、日本は豊かになっていた。そうした商品で差別化することは難しくなっており、店にはいつも閑古鳥が鳴いていた。

お客さんも来なくて暇なので、順子さんは毎日神社にお参りに行っていた。そんなある日、三宮の高架下を歩いていてふと思った。携帯電話が鳴らないのだ。暇でお金もあって、でも誰からも呼ばれることがない生活。

「私って、世の中に必要とされていないんだ」

誰かのために生きてきた順子さんに、この状況はこたえた。

なんとか状況を変えたくて、占い師に自分の将来のことを聞いたこともある。そうする中で、ある占い師はこう告げた。

「今のように、信念がないままやっていても絶対にだめ。いい加減にせい。なぜ力を出し切らないのか。本気を出せ」

でももう50歳なんですよ、とこぼす順子さんに、占い師は畳みかけた。

「60歳までにあと10年ある。これからの10年で、20年、30年分の価値にしろ。あなたは神戸じゃだめだ。横浜に行け!」

50歳、貯金が尽きたどん底から最後の挑戦

悩みぬいた末、ここにいてもだめだと、関東に戻る決心をした。決めたら行動力のあるのが順子さんだ。翌日には横浜の「元町」で、物件を探しに不動産屋を回っていた。

50歳からの再スタートだった。

とはいえ、貯金も徐々に切り崩しており、元町の一等地に店は借りられない。横浜中華街のメインストリートから一本脇の道にある、駐車場前の2階に事務所を構えた。神戸で一緒にやってきてくれた二人のスタッフは、今回もまたついてきてくれた。

とりあえず神戸の店から在庫を持ってきて、それを飛び込み営業で売るところからのスタートだったが、やはり売れない。しばらくすると、とたんに立ち行かなくなった。自身の生命保険もすべて解約し、手元にはもう1000万円程度しか残っていなかった。スタッフの給与が払えなくなり、一人が去った。残った一人に「もうだめだね」と話し、事務所で就職活動していいよと告げた。

しかし、退路を断たれて、踏ん切りがついた。デザイナーにあこがれていた昔の気持ちを思い出し、「どうせお金が無くなるなら最後にものづくりをやってみようか」とスタッフに話すと、「やりましょう!」と付き合ってくれた。

思えばこれまでは人の夢やプランに乗ってサポートすることを全力でやってきた仕事人生だった。退路を断たれた時に、ようやく自分を主人公にすることを決めることができたのだ。

文=藍羽笑生

土屋 順子(つちや・じゅんこ)
A.Y.Judie 代表取締役会長 兼 デザイナー

1958年長野県出身。東京家政大学卒業。電子機器メーカーに就職。友人に刺激を受けて、夜間学校にて簿記1級と税理士試験科目(財務諸表論、簿記論、法人税)に合格。夫の食料品店の共同経営を経て2006年、A.Y.Judieを設立。

土屋 香南子(つちや・かなこ)
A.Y.Judie 代表取締役社長

1988年長野県出身。早稲田大学国際教養学部からマギル大学教養学部へ編入。大学卒業後に帰国し、メリルリンチ日本証券に入社。投資銀行部門において株や債券の発行業務、M&A業務に従事したが、激務に疲弊し、1年で退社。2011年、アルバイトとしてA.Y.Judieに加わり、その後正式にジョイン。