当時は、リーマンショックの影響で売り上げが落ちていた。市場を拡大しなければという方針になり、ちょうど何か新しいことをやって成長したいと強く思っていた斎藤さんは中国での勤務を希望。準備として中国語を4カ月、朝から晩まで猛勉強したが、それすらも楽しかったという。上海支社に赴任してからは、日本とは違うコミュニケーションのやり方も理解してスタッフと信頼関係を築き、ショップも出店した。

しかし、3年目に突然、中国から撤退することになる。会社のトップが交代し、その判断で、赤字部門をカットすることになったからだ。斎藤さんには「まだこれから」という気持ちがあったので、ショックは大きかった。さらに、社員をはじめ、合計30人ものスタッフを解雇することに。

「もう苦行ですよ。本当にみんなに申し訳ないという気持ち。人を採用することの重みを知った瞬間でした。やはり人を雇うときには、社員の人生を背負っているという責任感を持たなければいけないということを学びましたね」

(左)上海支社で現地スタッフと一緒に(右)鹿児島にて。西郷隆盛の銅像前でポーズ!
(左)上海支社で現地スタッフと一緒に
(右)鹿児島にて。西郷隆盛の銅像前でポーズ!

中国事業からの撤退で、30人をリストラした痛み

それが唯一、会社を辞めてもいいと思った大きな挫折だという。辛い気持ちを抱えながら、上海支社がなくなるまでの間、辞めてもらうスタッフとコミュニケーションを密にし、最後にはなんとか許してもらえた。「私が乗り越えたというより、みんなが乗り越えたということかな」と振り返る。そして、撤退後も当時の中国のスタッフとは連絡を取り合い、その中にはアテニアに再就職した人もいる。

「現在は海外事業も再開しているので、7年前に中国での経験をしておいてよかったなと思います。それに今、振り返れば、当時、私に商品企画だけでなく、経営の知識があったなら、状況は違っていたかなとも思いますね」

そして、キャリア最大の転機を迎え、役員への道を切り開いたのは、2015年。中国から帰国し商品企画部に戻っていたところ、売り上げが激減し、会社の存続が危ないといわれるまでに。斎藤さんも危機感を抱き、まず通販においての営業ともいえる広告をどうにかしなければいけないと考え、未経験の分野に打って出ることにした。

「このままでは本当に会社がつぶれると思って(笑)。だったら、私が立て直し役になってもいいのではと立候補しました。同僚たちは社長の思いを形にできず苦戦していて、私には社長の考えがなんとなく理解できていたので、周囲も好意的に受け止めてくれました。私には一種の使命感がありましたね」

LIFE CHART