コロナ禍だからこそ「互助」と「共助」を
コロナショック以降、収入から習慣まで、生活が根こそぎ揺らぐ体験を誰もが経験していると思います。有名なマズローの5大欲求で例えるならば、生理的欲求と安全欲求までもが揺らぐ事態です。これらは日本で生活している限り、まず脅かされることのない領域でした。
また日本は、災害のように一気に崩れた状態から復興していくことは経験済みでも、コロナショックのようにじわじわと崩れ、終わりが見えない不安に長く付き合った経験はほとんどありません。
しかし、海外ではどうでしょう? たとえばベルリンは、長く続いたベルリンの壁の悲劇を経験しているからこそ、市民は非常時でも、公助を当てにしすぎることがありません。まず自分のことは自分でまかない(自助)、余力で相手を助け(互助)、そしてみんなで助けあう(共助)、というように、連続性を持って助けあう市民性が備わっています。
僕は、本来の人のあるべき助け合いとは、自助、互助、共助、公助の4段階で行なうものではないかと考えています。しかし日本人は、生活が脅かされる事態を長く経験していない影響からか、まず公助を当てにしてしまうところがあるのかもしれません。だからこそ今回のように生理的・安全欲求が崩れたとき、日本人がまず思い出すべきは互助と共助ではないかと思うのです。
「互助」と「共助」の輪を作るメリットとは
もともと日本は長屋文化があったくらいですから、互助も共助も当たり前の国だったはずです。キングコングの西野亮廣さんも同じことをおっしゃっていて、東北地方には地域の共助のための「結」という集団があって、たとえば積雪で家の屋根が落ちたら、グループで直してあげたりするそうです。これらは地域に限定された互助・共助の輪ですが、インターネットの時代では、物理的距離に関係なくサポートし合うことができます。
今回のコロナショックでも、インターネット上では共助の輪が数多く生まれています。たとえばコロナショックの影響で出た大量のキャンセル商品を、農業や漁業の業者さんたちが安く提供するため、フェイスブックを通して各地の支援者とつながるなどの試みが増えているのです。
僕は今回のコロナショックに限らず、これからの時代は、「互助・共助のつながり」をいかに個人がつくっていけるかが大事なのだと思います。
そもそも、互助・共助のつながりを物理的距離に関係なく持てることのメリットは何なのでしょうか。2つあります。