ミシン屋の社長宅にミシンがなかった理由

それは、わが子の入園・入学シーズン。妻は親として「入園バッグや防災頭巾を、手作りしてあげたい」と感じていた。他方、自宅にはミシンがない。店に見に行っても、欲しいようなミシンは並んでいない。

でもなぜ、「ミシン屋」の山崎さんの家に、ミシンがなかったのでしょう。

実はこれこそが、山崎さんの見事なマーケティング戦略。彼は、自分が一顧客として「どうしてもミシンが欲しい」と感じる瞬間はいつなのかを知ろうと、あえて自宅にミシンを置きませんでした。

結果的にそのおかげで、妻が「ミシンがあれば、わが子のために手作りできるのに」と、「子育て」が強いニーズを生むことに気づいた。また、自宅から借りてきたミシンで妻が生地を縫っていると、横でわが子が正座してじっと見守っている。そして出来上がった作品を手に、本当にうれしそうにはしゃいでいる。

この様子を見て、山崎さんは「子育て中のママたちが使えるミシンを作りたい」と強く感じたそう。この「真のニーズを知るために、あえてその商品を遠ざける」という考え方は、マーケティングで「Breaching experiment(違背実験)」と呼ばれる手法です。

「当たり前」のありがたさに気づくための実験

違背実験とは、特定の商品やブランドを「当たり前」のように日常的に使うユーザーに対し、あえて一定期間、その使用を強制的に禁止すること。そのことによって、商品やブランドの価値を改めて実感してもらう手法です。

最も有名なのは、90年代初頭、アメリカで始まった「Got milk?(牛乳ある?)」キャンペーン。当時、カリフォルニアでは牛乳の消費が落ち込み、同州の牛乳加工業者協会は「なんとかしなければ」と考えていました。

一方で、総じて飲む量が減ったとはいえ、多くの家庭には「牛乳があるのが当たり前」だった。彼らに「なぜ牛乳を飲むのか?」や「牛乳の魅力は?」と調査しても、「そんなこと、考えたこともない」という返事ばかりでした。

そこで同協会が代理店と実施したのが、違背実験。対象者に、あえて1週間牛乳を飲まない生活を送ってもらい、その後でグループインタビューを行うと、「パンやクッキーを食べるとき、牛乳がないとイライラする」といった声が次々と出てきた。

つまり、多くの人は「あえて飲めない」状態になって初めて、「牛乳を大切だと感じる瞬間」に気づいたのです。

予想の3倍以上の売り上げ達成

山崎さんが行ったのも、これと同じ。ミシンをあえて自宅に置かないことで、本当のニーズが分かった。その結果、「子育てにちょうどいいミシン」という、絶妙なコンセプトと商品が生まれました。

20年3月27日、まさにコロナ禍で発売された同商品は、5月末現在、同社の直販サイトで売られるのみ。それでも急きょ、マスクの縫い方動画をアップするなど工夫したこともあり、なんと当初予想の3倍以上の売り上げを記録しました。ただ、売れた理由は、単に「手作りマスク」の効果だけではないでしょう。

ちなみに、「子育てにちょうどいい~」や「朝食りんごヨーグルト」(グリコ)、「ワンダ モーニングショット(缶コーヒー)」(アサヒ飲料)のように、商品名に限定的なシーンを入れることには、デメリットもあります。

それは、子育てに関係ない人達が、ターゲットから外れる危険性があること。それでもなお、山崎さんが「子育てにちょうどいい」の名にこだわれたのは、手作りをめぐる妻と子の様子を間近に見て、「絶対に売れる!」と確信できたからでしょう。

老舗メーカーが生んだ大ヒット。その裏には、40代前半の若手社長の、絶妙なマーケティング戦略があったのです。

写真=iStock.com

牛窪 恵(うしくぼ・めぐみ)
マーケティングライター、世代・トレンド評論家、インフィニティ代表

立教大学大学院(MBA)客員教授。同志社大学・ビッグデータ解析研究会メンバー。内閣府・経済財政諮問会議 政策コメンテーター。著書に『男が知らない「おひとりさま」マーケット』『独身王子に聞け!』(ともに日本経済新聞出版社)、『草食系男子「お嬢マン」が日本を変える』(講談社)、『恋愛しない若者たち』(ディスカヴァー21)ほか多数。これらを機に数々の流行語を広める。NHK総合『サタデーウオッチ9』ほか、テレビ番組のコメンテーターとしても活躍中。