「空気を読め」という重圧

発達障害と診断されるケースが増えた一因として、「空気を読め」と以前にも増して要求されるようになったこともあるのではないか。発達障害の人は、空気を読むのが苦手なことが多く、それを暗黙のうちに要求されると、とてもしんどいと感じるようだ。

なぜ空気を読むことが以前にも増して要求されるようになったのかといえば、世間が壊れてきたからである。

われわれの世代が知っているような昭和の時代のかっちりした世間では、しっかりと会社があって、そこで定年まで働くのが当たり前だった。また、ご近所同士のお付き合いもしっかりとあり、ご挨拶も盆暮れの付け届けもきちんとするのが普通だった。そういうかつては当たり前にあった世間の姿は、とくに大都市では過去の遺物になりつつある。

どこかにその一部が残ってはいても、機能不全に陥っている。そのうちに消えてなくなってしまうだろう。このように世間が崩れつつあるからこそ、空気を読むことが以前にも増して求められるようになった。というのも、作家で演出家の鴻上尚史氏が見抜いているように、「『世間』が流動化したものが『空気』」だからだ(『「空気」と「世間」』)。

しかも、鴻上氏によれば、「『世間』は中途半端に壊れていて、そして、この数年でさらに激しく壊れている」という。私も同感だ。『「空気」と「世間」』が刊行されたのは2009年だが、それから現在に至るまで世間が一層壊れたと感じているのは私だけではないだろう。

現在の日本社会では、かつて存在していた世間というちゃんとした共同体は崩壊しつつある。完全に崩壊したわけではないにせよ、かなりの程度崩壊していることに誰もが気づいている。残念ながら、「もはや『共同体』をもう一度取り返すのは、不可能だ」とも感じている。

「世間」が壊れるに従って不安定になる日本人

もちろん、中には「世間を気にしながら生きるのは面倒くさい」とか「世間のようなうっとうしいものは、なくても全然かまわない」と思っている方もいるかもしれない。ただ、われわれ日本人は伝統的に世間の中で生きてきたので、個人が世間に支えられていた面もある。そのため、世間が壊れるにつれて、日本人の多くが不安定になり、「自分を支えてくれる『なにか』」を、世間が安定していた頃よりも一層強く求めるようになった。

片田珠美『一億総他責社会』(イースト新書)

「自分を支えてくれる『なにか』」は、程度の差はあれ、誰にとっても必要だ。ただ、個人主義が浸透していて、キリスト教信仰がある程度残っている欧米と比べて、日本では、「自分を支えてくれる『なにか』」を他人とのつながりに求めがちである。

この「自分を支えてくれる『なにか』」を求める気持ちが、せめて「共同体の匂い」を感じたいという願望につながり、それが「空気」という言葉になるのだと鴻上氏は指摘している。そして、「『空気を読め!』という言葉は、『共同体の匂いを読め』という指示です」と主張している。

この主張には説得力がある。いまや世間という共同体は壊れつつあり、「世間に従え!」とは言えなくなった。そこまで言える、かっちりした共同体はもはやないのだから。その結果、かすかに残っている「共同体の匂い」を読むこと、つまり「空気」を読むことが以前にも増して求められるようになったのである。

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片田 珠美(かただ・たまみ)
精神科医

精神科医。大阪大学医学部卒業。京都大学大学院人間・環境学研究科博士課程修了。人間・環境学博士(京都大学)。フランス政府給費留学生として、パリ第8大学精神分析学部で精神分析を学ぶ。著書に『他人を攻撃せずにはいられない人』(PHP新書)など。